95ヶ条の論題
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1517年にルターが95か条の論題を城教会の門に貼りだしたことで宗教改革が始まった、とされている。95か条の提題(1522年に刊行されたもの)

95か条の論題(95かじょうのろんだい、ドイツ語: 95 Thesen)は、1517年10月31日にマルティン・ルターが発表したとされる文書である。

一般的には、ルターがこの文書をヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼りだしたのが宗教改革の発端になったとされており、カトリック教会贖宥状(免罪符)販売を批判したものだとされている。内容は序文と95か条の提題(テーゼン)から構成されており、本来はラテン語で書かれていた。すぐに活版印刷によるドイツ語訳版がつくられて印刷され、ドイツ中に知れ渡ったとするのが定説である。
概要1520年のルターの肖像(銅版画)。

「95か条の論題」は、中近世のヨーロッパ史における重大事件である宗教改革の契機になった文書として知られている。この文書はマルティン・ルターが1517年10月31日に、自身が神学教授を務めているヴィッテンベルクの教会の門に貼りだしたとされている。文書は主に贖宥状の販売を糾弾する内容になっていたとされているが、実際にはラテン語で書かれているために、一般市民には全く内容はわからないものだった。

通説では、ルターがこの掲示によって教会を批難したのは勇気ある大胆な行動であり、すぐさまドイツ語に印刷されて出回り、ドイツ中に大きな論争を巻き起こしたと説明される。しかし歴史家たちは、ルターがやったことは当時の学術界における所定の手続きに則って討論会の告知を行っただけであったと指摘している。この時点では、ルター自身も一般庶民に大きな影響を及ぼすことになるとは考えていなかっただろうというのが現代の学術界の定説である。しかも、「門扉に文書を貼った」という伝承が歴史的事実であるかどうかも結論が出ていない。

にもかかわらず、この文書が、突如として宗教改革を引き起こし、カトリックプロテスタントを分裂させた端緒になったというイメージは、今も一般的である。10月31日は宗教改革記念日(Reformationstag)となっており、ドイツのプロテスタント地方では休日になっている。
内容
序文

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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ラテン語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。95 Thesesドイツ語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。95 Thesen

「AMORE ET STUDIO ELUCIDANDAE, veritatis haec subscripta disputabuntur Vuittenbergae, Praesidente R. P. Martino Luther, Artium et S. Theologiae Magistro eiusdemque ibidem lectore Ordinatio. Quare petit, ut qui non possunt verbis praesentes nobiscum disceptare agant id literis absentes. In nomine domini nostri Iesu Christi.Amen.」

?第1頁の表題部(ラテン語)

「真理への愛と、それを明らかにしようとする願いから、ヴィッテンベルクにおいて、文学修士、神学修士、同地の神学正教授である司祭マルティン・ルター司会のもとに、以下のしるされたことについて討論することにする。したがって、出席して私たちと口頭で論議することのできない者は、欠席のまま書面でこれをしていただくようにお願いする。私たちの主イエス・キリストの御名において、アーメン[1]。」

?ルター著作集分冊 1『九十五個条の提題 キリスト者の自由』

命題

『95ヶ条の論題』は、ウィキソースにラテン語の原文の他、英語訳やドイツ語訳など多言語の翻訳版が収録されており、日本語訳については、聖文舎からルター & 緒方 訳 (1983)[注釈 1]などや教文館からルーテル学院大学・ルター研究所 (2005)などが出版されている他に、コトバンクルーテル教会のサイト[3]でも、全文が公開されており、誰でも自由に参照することが可能である。以下は条々を多少簡略化した要約および引用である。『煉獄より魂を救済する天使』。ルドヴィコ・カラッチ作。

 
 
テッツェルの風刺画。「So bald der Gulden im Becken klingt, Im huy die Seel im Himel springt(グルデン金貨がチリンと鳴れば、魂はポンと天国へ飛び上がる)」との謳い文句で贖宥状を売りさばいていたとされている。「贖宥状の販売」。ハンス・ホルバイン作。左では不虞の貧者にも贖宥状が売りつけられており、右では箱に投げ込んだ金がチャリンと鳴る様子が肥え太った贖宥説教者と共に描かれ、背後の教皇は売り上げの報告を受けている。教皇からの委任状を貼り付けた十字架を背にして贖宥状を売る説教者テッツェル。(ヨハン・ワーグナー作)

 
 
ミケランジェロが教皇レオ10世にサン・ロレンツォ大聖堂 (フィレンツェ)(英語版)のモデルを示す」。ヤコポ・ダ・エンポリ(英語版)作。メディチ家出身の教皇は文化・芸術を愛して芸術家を庇護した反面、大変な浪費家で、教皇庁の財政を破綻させた。「楽しみを販売している教皇」。教皇を反キリストであると暗示する内容の免罪符の販売を批判したルーカス・クラナッハ作の風刺画で、1521年のルターの著作『Die Rolle des Passional Christi und Antichristi』の挿絵[4]。body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}
主は人々に全生涯の悔い改め[注釈 2]を求めた[1]

それを秘跡としての悔悛[注釈 3]告解と償罪)であると解することはできない[6]

しかも単に内的な悔い改めをさしているのではない。外的な苦行のない内的な悔い改めは無に等しい[6]

天国に入るまでは罰(ポエナ)は続くものである[6]

教皇は、自身または教会法が課した罰を除いて、どのような罰をも赦免できない[6]

教皇は、神から罪責(クルパ)が赦免されたと宣言して赦免する以外、どのような罪責も赦免できない[6]

神は、人が全てのことにおいて神の代理人である司祭に従っていなければ、罪責を赦免し給わない[6]

悔悛についての教会法は死に臨んでいる人に課されてはならない[7]

そのために聖霊は、教皇をよって私たちによいことをし給うている[7]

死に臨む人に、教会法による悔悛を煉獄にまで留保する司祭は、無知で悪い行いをしている[7]

教会法による罰を転じて煉獄による罰とまでしているのはあの毒麦[注釈 4]によるものと思われる[7]


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