9.5mmフィルム(きゅうてんごミリフィルム、英語: 9.5 mm film)は、1922年(大正11年)に発売された個人映画向けのムービーフィルムの規格である。フランスのパテ社が開発した。略して9,5(きゅうてんご)とも表記されるのは、フランスでの小数点表記が「,」であるからである。日本での愛称は9ミリ半(きゅうミリはん)[1]。
写真用小型カメラであるミノックスにも同サイズのフィルムが使用されており、ミノックスフィルムと呼ばれる。 画面サイズは6.5×8.5mmであり、9.5mmのフィルム幅から8.5mmがとれるのは、パーフォレーション(穴)が、フィルム両側ないしは片側ではなく、フレームとフレームの間に入っているからである(図1参照)。画面アスペクト比は1:1.307で、サイレント映画のスタンダードサイズ(1:1.33)にほぼ適応する。 パテベビー用のフィルムには、フィルム素材にニトロセルロース(セルロイド、ナイトレート)を使用せず、トリアセチルセルロース(アセテート)を使用しているため、前者と比較して耐燃性は高い。劇場用映画のフィルムが後者に切り替わるのは1951年(昭和26年)であり、安全フィルムの使用においては、先駆的であったが、反面、経年劣化を起こしたフィルムには、ビネガーシンドロームが起きる可能性を孕んでいる。 現在でも愛好者はおり、シネクラブ組織が、ドイツ、ベルギー、スペイン、フランス、イギリス、オランダ、ルクセンブルク、スイス、アメリカ合衆国、カナダ等の各国に存在する[2]。2011年(平成23年)9月には、イギリス・ハートフォードシャー州のハーペンデン
概要
ミノックス向けの写真用フィルムについては、#写真用フィルムを参照。 1922年、フランスの映画会社パテ社が開発、9.5mmフィルム、あるいは本サイズ用の撮影機・映写機といったシステムをパテベビー(フランス語: Pathe Baby)ブランドのもとに発売を開始する。「パテベビー」を参照 フランスでは、1980年代初頭まで、撮影機(Webo M, 16mmフィルム用カメラが主機種)が製造販売されており、家庭用には長く実用されており、フィルムも製造され、現像に応じていた。 アメリカ合衆国では、パテ社の米国法人パテ・エクスチェインジ社が、パテックス(Pathex)の商品名で、1925年(大正14年)のクリスマス時期に映写機と劇場用映画のディフュージョンリールを発売することで、9.5mmフィルムが導入された[5]。コダック社の開発した8mmフィルムの威力に押され、1930年代には衰退した[5]。 日本では、1924年(大正13年)に東京・銀座の伴野文三郎商店(現在の伴野貿易 1927年(昭和2年)、ドキュメンタリー映画作家の佐々元十が、パテベビー撮影機を使用し、同年の第8回メーデーを撮影した『1927年メーデー』(製作・日本プロレタリア芸術連盟プロレタリア映画班、日本プロレタリア映画同盟の前身の一つ)を発表、「玩具のカメラが武器になる」の言を遺している(論文『玩具・武器 - 撮影機』、『戦旗』1928年6月号所収)。 1920年代-1930年代の日本では、劇場用映画 現在では、35mmネガ原版や上映用プリントが失われ、それまで現存しないとされていた作品が、9.5mmプリントで各地の個人宅から発見される機会が増えている。小津安二郎監督の『和製喧嘩友達』(1929年公開、1997年発見・復元)、斎藤寅次郎監督の『石川五右ヱ門の法事
映画用フィルムパテベビー映写機。
フランス
米国
日本
長年、小型映画の現像場として活動した育映社が、2005年(平成17年)11月にラボを閉鎖し、9.5mmフィルムからの国内での復元が暗礁に乗り上げたが、2008年(平成20年)に、IMAGICAウェストが9.5mmフィルム専用のオプチカル・プリンターを導入、同規格の映像を35mmフィルムに復元することが可能になった[1]。
発見されたおもな作品