9世紀
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ヤアクーブは銅細工師からアイヤール(イラン世界における任侠の徒)となり、貧者に尽くす義賊であったとの伝説もあり、今日でもイラン人の評判は高い。画像はデズフールにあるサッファールの銅像。インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。入唐求法巡礼行記』。日本僧円仁最澄の下で天台教学を修めた後、遣唐留学生として中国に赴き詳細に渡る見聞をこの記録にまとめた。唐の武宗による会昌の廃仏に遭遇するなど辛酸を舐めたが、それも含めてこの記録は晩唐の貴重な資料となっている。法門寺宝物。唐では武宗による会昌の廃仏以後も仏教は衰えを見せなかった。歴代皇帝の尊崇を集めた法門寺からは1987年に地下宮殿が発見され多くの宝物が出土した。画像は法門寺の金銀器の一つで禁止出境展覧文物(中国語版)でもある「八重宝函」。「海東の盛国」。靺鞨人と高句麗遺民により建国された渤海は、国王大仁秀と続く大彝震のもとで国力を増進し、唐や日本との良好な関係もあって、この時期「海東の盛国」と呼ばれた。画像は大彝震の年号「咸和」が刻まれた「咸和四年銘仏龕(倉敷市大原美術館蔵)」。密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。崇文の治。薬子の変から承和の変までの嵯峨・淳和・仁明の三代の治世は、勅撰漢詩集の編纂にみられる文雅が重んじられた時代で、安定した政治が行われた。画像は三筆の一人でも名高い嵯峨天皇の肖像画(御物)。神仏習合の深化。奈良時代に始まった神仏習合の流れから、平安時代前期には日本古来の神々の像が作られるようになった。画像は薬師寺休ヶ岡八幡宮にある国宝八幡三神比売神応神天皇皇后の仲姫命)の神像。伊勢物語』の世界。この物語の主人公は政治では不遇でありながら歌才に恵まれた貴公子在原業平がモデルとされている。画像は伝俵屋宗達の『伊勢物語図色紙』(大和文華館蔵)六段芥川で業平が二条后高子を連れ出す場面。応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。ティワナクボリビアラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。カバー遺跡。ユカタン半島北部の遺跡で、プウク式装飾で有名なコズ・ポープ神殿がある。画像は雨の神チャク神の仮面で覆われたコズ・ポープ神殿のファサードで、裏手と側柱に9世紀の日付がなされている。カロリング帝国の分裂。ヴェルダン条約と続くメルセン条約でカール大帝の遺領は三分割された。
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