9・30事件
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インドネシアの歴史

初期王国
クタイ王国 (4世紀末-5世紀初め頃)
タルマヌガラ王国 (358-723)
スンダ王国(英語版) (669-1579)
シュリーヴィジャヤ王国 (7世紀?14世紀)
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クディリ王国 (1045?1221)
シンガサリ王国 (1222?1292)
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マジャパヒト王国 (1293?1500)
イスラーム王朝の勃興
マラッカ王国 (1400?1511)
ドゥマク王国 (1475?1518)
アチェ王国 (1496?1903)
バンテン王国 (1526?1813)
パジャン王国(英語版) (1568年-1586)
マタラム王国 (1500年代-1700年代)
ヨーロッパ植民地主義
オランダ東インド会社 (1602?1800)
オランダ領東インド (1800?1942)
インドネシアの形成
日本占領下 (1942?1945)
独立戦争 (1945?1950)
インドネシアの独立
9月30日事件 (1965?1966)










9月30日事件(くがつさんじゅうにちじけん)、通称9・30事件とは、1965年9月30日インドネシアで発生した軍事クーデターである。
目次

1 概要

2 背景

2.1 経済政策の失敗

2.2 外交上の孤立

2.3 国軍対共産党


3 事件の推移

4 スカルノからスハルトへ

5 中国共産党と事件の関係

6 関連映画

7 脚注

8 参考文献

9 関連項目

概要

クーデターを起こした国軍部隊は権力奪取に失敗しているので、正しくはクーデター未遂事件とするべきであるが、一般に未遂事件後のスハルト陸軍少将(当時)による首謀者・共産党勢力の掃討作戦に関連する一連の事象全体を指して「9月30日事件」と総称している。

事件の背景として、国軍と共産党の権力闘争、スカルノ大統領(当時)の経済政策の失敗にともなう国内混乱、マレーシアとの対立により国際連合脱退まで至った国際政治におけるインドネシアの孤立などがあった。この事件を契機として、東南アジア最大だったインドネシア共産党は壊滅し、初代大統領スカルノは失脚した。

9月30日事件の詳細な経緯については、スハルト政権崩壊後の今日においても、未だ多くの謎に包まれている。スカルノの排除を狙うスハルトが仕掛けたカウンター・クーデターであるという説、スカルノの左傾化と中華人民共和国への急接近を警戒したアメリカ合衆国中央情報局が背後にいたという説[1]、あるいはインドネシア共産党と親密であった中国共産党が関与していたという説など[2][3]、さまざまな陰謀説が主張されているが、いずれも推測の域を出ていない。

いずれにしても、この事件の影響でインドネシアと中華人民共和国との外交関係が政府間のみならず民間関係も含めて悪化し、それと反比例してイギリスやアメリカなどの西側諸国との外交関係が良好なものとなっていった。

スハルトが2008年1月27日に死亡したため、本人の口から事の真相を聴くことは不可能となり、また事件後の「共産主義者狩り」に動員された人々の多くが被害者側からの報復を恐れて口を閉ざしていることも、事件の全貌を解明することを難しくしていると言える。しかし近年、9・30事件をテーマとした映画が制作され、インドネシアでも上映されたことをきっかけに、事件の真相究明を求める動きが広がっている[4][5]

インドネシア国内では、この事件を「9月30日運動 Gerakan Tiga Puluh September」という。また、その略語に黒幕とされたインドネシア共産党(Partai Komunis Indonesia)の頭文字をつけて「G30S/PKI」とも呼ばれる(この呼称がスハルト政権下で公認されていたが、後半のPKIは民主化後など時期によっては外されている)[6]。さらに、特に9月30日のクーデター未遂事件を、クーデター部隊をナチスゲシュタポ(=恐怖政治のイメージ)にかけて「ゲスタプ(Gerakan September Tiga-puluh)」といい、翌日以降のスハルトらによる掃討作戦を「グストク(Gerakan Satu Oktober、10月1日運動)」と呼んで区別する場合もある[7]
背景
経済政策の失敗 独立宣言を行うスカルノ(1945年)

インドネシア建国の父となったスカルノは、国民をオランダ植民地支配から解放したという点で、まさしく「国民的英雄」だった。その一方で、オランダの植民地時代の遺産の完全否定は、経済的にプラスになる部分まで切り捨ててしまったために、同国に経済的な疲弊をもたらした。

オランダ領東インド時代のジャワは、世界でも有数の砂糖生産地であり、その輸出により経済が成立していた。こうしたモノカルチャー経済に大きく依存していた国民経済は世界市場の変動によって左右されやすく、政治的独立を達成したスカルノにとって次なる課題は、そうした植民地経済の遺産を清算し、経済的独立を達成することであった。

スカルノは欧米諸国、その中でも旧宗主国のオランダやイギリスのみならず、独立を支援していたアメリカ合衆国を含む西側諸国を中心とした外国企業の資産を接収し、新たな外資の導入も禁止することで、欧米諸国を中心とした外資の排除を図った。また、植民地時代から経済分野で優勢な地位を固めていた華人を差別し、さらにさまざまな輸入品目の規制を図ることで地場産業の振興を図り、自立的な経済の樹立を目指した。しかし、これらの経済政策は、深刻な食糧不足とインフレ率数100%に達する末期的な経済状況を生み出してしまった。
外交上の孤立 スカルノとアメリカのジョン・F・ケネディ(1961年)

スカルノ政権による外資凍結と外国企業接収は、それらに利権を有していた欧米諸国からの非難を呼び起こし、それまでインドネシアの独立を支持していたアメリカもスカルノに対して不快感を強めていった(ここからスカルノ政権の転覆を図るためにアメリカのCIAが9月30日事件を策謀したという説が出てくる)。

1961年に、マレー半島一帯の宗主国であったイギリス政府の肝いりでマレーシア連邦が建国されると、スカルノはこれを「旧宗主国による植民地主義の復活である」として厳しく非難、国軍部隊を派遣して「マレーシア粉砕」を高らかに宣言し、1962年からは軍事衝突が断続的に起こった(en:Indonesia?Malaysia confrontation)。これがさらなる国際的非難を招くと、1965年1月にはマレーシアの国際連合安全保障理事会非常任理事国への当選に抗議して国際連合からの脱退を敢行し、インドネシアの国際的孤立はますます深まっていった。

こうした実行を伴ったスカルノの外交パフォーマンスには、多分に国内向けのナショナリズム・アピールという側面があり、国民の経済的困窮の不満を外に向けて発散させるという動機があったことも見逃せない。そうしたスカルノの姿勢に対して、国内でも軍主流派やエコノミスト、一部政党政治家らは危機感を強めており、挙国一致して国難を乗り越えようとするスカルノの「指導される民主主義」末期には、国内各勢力の分裂の契機が内包されていた。
国軍対共産党


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