8世紀
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画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。唐三彩駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。突厥碑文テュルク系民族である突厥は遊牧民族として最初の固有文字を作ったことで知られている。画像はモンゴルトール川上流域にあるバイン・ツォクト碑文で突厥第二帝国の重臣トニュククの功績を記録したもの。マニ教の東漸。ウイグルではマニ教が国教として受容された。画像はアルベルト・フォン・ル・コックが発見したタリム盆地高昌故城出土の細密画「マニ教経典断簡」(国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。高松塚古墳藤原京時代(694年 - 710年)に建造された終末期古墳円墳で、天武天皇の皇子乃至は高位の貴族の墓と推定されている。1972年に発見された時にはその極彩色の優美な壁画で耳目を集めた。画像は古墳壁画のうち西壁女子群像の部分。天平文化遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。太宰府九州における日本の軍事・外交を担当した役所で「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれた。『万葉集』で知られる大伴旅人筑紫歌壇の舞台でもあり、「梅花の宴」の故事でも有名になった。画像は現在の太宰府遺構正殿跡(都府楼跡石碑)。平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。カラクムル遺跡。メキシコにある古典期マヤの遺跡で、117基という最も多くの石碑(ステラ)が残ることで知られている。画像は石碑51で731年の記録がされているユクノーム・トーク・カウィール王のもの(メキシコ国立人類学博物館蔵)。ワリ文化。500年から900年頃にアンデス中央高地地帯北部で栄えた文化で、南部のティワナク文化とも相互に交流し、後には帝国化した。画像はワリの人物立像(テキサス州キンベル美術館蔵)。ケルズの書』。『ダロウの書』『リンディスファーンの福音書』とともに三大ケルト装飾写本の一つとされ、「世界で最も美しい本」とも称される。画像はキー・ローモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。ランゴバルド王国の盛衰。東ローマ帝国のイタリア領を蚕食して支配を拡げたこの王国も教皇庁と提携したフランク王国の攻勢に敗退した。画像はランゴバルド王ラトキスが8世紀半ばに寄進した祭壇で、チヴィダーレ・デル・フリウーリのキリスト教美術館が所蔵している。カール大帝800年のクリスマスに行われたローマ教皇レオ3世によるカール大帝の戴冠は、「西ローマ帝国復興」を示すものであり、東ローマ帝国との間に「二帝問題(英語版)」の軋轢を生んだ。画像はアーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。

8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀
できごと
8世紀

世界的な温暖化現象により、各地で海水面が上昇する(ロットネスト海進、
平安海進)。

700年代詳細は「700年代」を参照

701年

大宝律令の撰定が完成する。刑部皇子藤原不比等らに禄を賜う。この時期までに令制国が成立する。

則天武后の命により中宗の嫡男李重潤(懿徳太子)・七女永泰公主らを処刑する。


702年

第八次遣唐使が派遣され、執節使粟田真人則天武后に謁見する。

この遣唐使は663年以来40年ぶりのもので、「」に代わる国名「日本」を承認させる目的もあった。



703年

持統太上天皇死去、天皇経験者として最初の火葬にされる。

則天武后により長安光宅寺七宝台仏龕の仏像群が作られる(後に宝慶寺(花塔寺)に移動)。


705年

宰相張柬之が張兄弟を倒し、則天武后を退位させる。

中宗が復位し、唐が再興される(神龍革命(中国語版))。この年に則天武后死去。


ウマイヤ朝カリフワリード1世によりダマスクスウマイヤド・モスクが完成する。

東ローマ皇帝ユスティニアノス2世ティベリオス3世を打倒し復位を果たす。


706年

慶雲の改革


706年

真臘が北部の陸真臘と、南部の水真臘とに分離する。


707年

文武天皇が死去し、第43代元明天皇が即位する。

唐の皇太子李重俊(節愍太子)が中宗皇后韋氏に対し反乱を起こすが鎮圧される。


707年 - 709年

長安の小雁塔が建てられる。


708年

武蔵国秩父郡和銅遺跡)で自然銅が産出され、和同開珎を鋳造する。

アヴランシュのオベールがモン・トンブ山に礼拝堂を建てる(モン・サン=ミシェル修道院の始まり)。

アンキアルスの戦いで、第一次ブルガリア帝国が東ローマ帝国に勝利。


709年

ウマイヤ朝カリフのワリード1世によりエルサレムのアル=アクサー・モスク(銀のモスク)が完成する(705年 -)。


710年代詳細は「710年代」を参照

710年

元明天皇が平城京遷都奈良時代の始まり)。

唐で韋后排斥の政変(唐隆の変(中国語版))により睿宗が復位。この功績で李隆基が皇太子となる。

涼州に最初の節度使である河西節度使が設置される。

吐蕃王ティデ・ツクツェンが王妃として唐の金城公主を迎え入れる。


710年頃 - ブルガリアのマダラの騎士像が作られる。

711年

グアダレーテ河畔の戦いで、ウマイヤ朝西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島を占領。


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