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8月宗派事件
各種表記
ハングル:?? ?? ??
漢字:八月宗派事件
発音:パルォルチョンパサコン
日本語読み:はちがつしゅうはじけん
MR式:
2000年式:P'alw?l chongp'a sak?n
Palwol jongpa sageon
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8月宗派事件(はちがつしゅうはじけん)は、朝鮮民主主義人民共和国において1956年6月から8月にかけて起こった政変(クーデター)。事件の経緯については明らかでない点が多い。反宗派闘争(はんしゅうはとうそう)とも呼称する。なお、朝鮮語の「宗派(チョンパ)」は日本語の「分派」を指す。 金日成は北朝鮮の党、政、軍の全権を一身に集めるため、様々な口実と手段を使って、南方派の勢力を消滅させ、延安派とソ連派の幹部にも打撃を与え、要職から次々と排除し、同時に教条主義と形式主義への反対、主体思想の確立を打ち出し、イデオロギーによる決定権を手にした[1]。第3回党大会とそれに続いた中央総会で朝鮮労働党の新しい中央指導者が選出され、委員長は金日成、副委員長は崔庸健、朴正愛、朴金、鄭一龍、金昌満であり、常務委員会委員は金日成、金?奉、崔庸健、朴正愛、金一、朴金普A林海、崔昌益、鄭一龍、金光侠、南日からなり、候補委員は金昌満、李鍾玉、李孝淳、朴義?であった[2]。11人の常務委員のうち5人が満州派で、他のメンバーのうち、朴正愛と南日はすでに金日成陣営に入り、鄭一龍も似たような立場であり、延安派の金?奉と崔昌益だけは政治面でやや独立的な存在であった[2]。候補委員のうち李孝淳は甲山派、李鍾玉は新しく抜擢されたテクノクラート、金昌満は延安派であるが金日成の鼓吹者になっており、朴義?だけが中立的立場であった[2]。 1956年2月のソビエト連邦(ソ連)にて、ニキータ・フルシチョフはソ連共産党第20回大会においてスターリン批判と呼ばれる秘密報告を行い、ヨシフ・スターリン期における様々な陰謀を曝露することでスターリン期の様々な政策を個人崇拝批判というかたちで批判した。このことはソ連の衛星国すべてに大きな影響を与えた。 朝鮮民主主義人民共和国でも同年4月に開かれた朝鮮労働党第3回大会においてソ連から参加したレオニード・ブレジネフは、朝鮮民主主義人民共和国にフルシチョフの路線に協力することを求めた。 同年6月、金日成はソ連・東ドイツ・ルーマニア・ハンガリー・ポーランド・チェコスロバキア・ブルガリア・アルバニア・モンゴルを歴訪し、経済援助を得ようとしたが思うほどの成果を得ることはできなかった。この間に国内では先述したスターリン批判を受け、延安派とソ連派が金日成の独裁体制を修正するためにクーデターを計画したと言われている。一部には武装蜂起の準備もあったと唱える者もいるが情報源などの確証は得られていない。いずれにせよ、後の動きと収束から延安派の徐輝(朝鮮職業総同盟委員長)・尹公欽(商業相)・崔昌益[3](副首相兼財務相)、ソ連派の朴昌玉(副首相)、金承化(建設相)、朴義?(副首相兼国家建設委員長)などが中心的人物だったことがわかる。 金日成が平壌を離れた直後、6月8日に崔昌益はイワノフ大使と会談し、党と国家の指導部における不健全な状況に関する見解を述べた[4]。7月14日には延安派の古参幹部で建築材料局局長の李弼圭がピトロフ臨時代理大使と会談し、金日成の個人崇拝に関する批判、すでに一部の幹部と連携して現在の党中央と政府の指導体制を変える目的で金日成らに早く行動を取るべきだと考えていること、その具体的な行動方式を伝え、最後にこの談話の内容について極秘にするよう念を押した[5]。 金日成は政変が起こることを察知し直ちに帰国した。金日成が察知したルートについてはいくつかの説がある。クーデター首謀者らが金日成が留守の間の首相代理である崔庸健(満州派)に協力を要請したところ崔庸健が計画の存在を金日成に通知した、クーデター首謀者らがソ連大使館に協力を要請したところソ連大使館から崔庸健を経由して金日成に伝わった、などの説がある。 7月24日、朴昌玉は南日の家を訪れ、いきなり自身や崔昌益、金承化など多くの幹部が間もなく開かれる中央全員会議で金日成の指導方法と個人崇拝などの過ちを厳しく糾弾することを知らせ、南日もこれに合流するように説得した[6]。それから21日から24日にかけて、朴昌玉、崔昌益、金承化は相次いでソ連大使館のフィラトフ参事官に会い、金日成批判の準備活動を報告した[6]。 反対派の活動はほとんど秘密がなく、ソ連大使館にしきりに報告をして支持を求める一方、至る所で遊説し、反金日成勢力の結集を図った[7]。 金日成とその支持者も反対派と比べてもっと頻繁にソ連大使館とコンタクトを取った[6]。ピトロフは7月24日に外務省に行って南日に会い、7月26日には金日成、7月28日には南日と朴正愛、8月1日には南日と会談を行った[6]。 7月31日、労働党中央幹部会議が開かれ、ここで朴金浮ニ朴正愛が相次いで同じような内容の発言をし、党内部で確かに金日成の個人崇拝は存在し、幹部の任命と罷免について一部の過ちを犯したと認めたが、金日成に対する崇拝はスターリン崇拝のように危険水域まで発展したものではなく、党はすでに過ちを是正する措置を検討しているため、個人崇拝の問題はこれ以上討論する必要はないと語り、ソ連国籍幹部に対する批判は主に延安派幹部によるもので、ソ連の指導者が朝鮮労働党の行動に介入することはないとした[8]。2人の発言は、明らかに金日成の意を汲んでおり、窓際に追いやられたソ連派幹部を宥め、反対派の分断を図ったもので、同時に不満を抱く人間に対しては軽率な行動を起こしてもモスクワからの支持は得られないと警告したようなものだった[8]。 モスクワは4月から5月にかけて、ソ連の新路線に対する金日成の面従腹背に極度の不満を示したが、8月初めには労働党の内部情勢を安定させる様々な措置に対し明確な指示を表明した[8]。
事件の経緯