730_(交通)
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復帰前の右側通行時代のコザ十字路現在の左側通行のコザ十字路。復帰前の右側通行時代の国際通り現在の左側通行の国際通り。



沖縄県の歴史年表



沖縄諸島)(先島諸島
旧石器時代先島先史時代
下田原期無土器期
貝塚時代
流求?)


(天孫氏琉球)
グスク時代
原グスク時代
三山時代
北山中山南山新里村期
中森期



第一尚氏王統
第二尚氏王統

世(薩摩藩支配)

琉球藩
沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県

主な出来事


三山統一による琉球王国の成立(1429年?)

琉球王国による先島諸島征服(1500-22年)

琉球王国による奄美群島征服(1571年)

薩摩藩による琉球侵攻(1609年)

琉球藩設置(1872年)

琉球処分による沖縄県の設置(1879年)

琉球救国運動の展開(1870年代-95年前後)

沖縄戦(1945年)

琉球政府設立(1952年)

祖国復帰運動(1950-72年)

コザ暴動(1970年)

沖縄返還(1972年)

ナナサンマル(1978年)

普天間基地移設問題

関連項目


奄美群島の歴史

先島諸島の歴史

日本の歴史時代区分

カテゴリ - コモンズ
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730(ナナ・サン・マル、ナナサンマル)とは、沖縄県日本に復帰してから6年後の1978年昭和53年)7月30日に、自動車対面交通が右側通行から左側通行に変更されることを事前に周知するため実施されたキャンペーン名称であり、実施後はその変更施行自体を指す通称となった。

「730」の名称は、変更施行月日である7月30日に由来する[1]
実施の経緯

戦前の沖縄県は、日本国内の他の地域と同じく自動車は左側通行であったが、沖縄戦終了後に沖縄を占領下に置いたアメリカ海軍政府1945年11月に出した指令により右側通行に変更され、1947年5月には沖縄民政府により右側通行を定める「自動車交通取締規則」が発布された[2][3][4]

この日本本土とは逆の「自動車は右側通行」という状況は、1972年本土復帰後も「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律(沖縄復帰特別措置法、特措法)」による規定[注釈 1]の下で続いたが、右側通行は暫定的なものとされ、道路交通に関する条約(ジュネーブ道路交通条約)による一国一交通制度を遵守する立場から、1975年以降に左側通行への切替を実施することが、特措法の規定に基づいて策定された[注釈 2][4]

当初、国は復帰4年後の1976年に変更作業を実施することを検討していたが、沖縄国際海洋博覧会の開催が優先されたことから延期され、1975年6月24日の閣議により、1978年7月30日をもって県内全域で左側通行に戻すことが決定され[4][7][8]、1977年9月20日、「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律第五十八条第一項の政令で定める日を定める政令」の公布により法定化された。これは、沖縄県の日本復帰を象徴的に示す戦後の一大プロジェクトであった[9]
変更作業

変更実施前から準備段階として、幹線道路ではあらかじめ左側通行用の標識信号を設置した上で、それらをカバーで覆い隠しておき、変更作業時にその覆いを外して右側通行用の標識にかぶせ直す方法が用いられた[10]。また、車線のレーンや右左折表示などの道路標示も、左側通行用の標示をあらかじめ描いた上で黒のカバーテープで覆い、変更作業時にバーナーによってテープを除去するという方法が取られた[10][11]。これらの覆いやカバーテープを用いた方法は世界初であり、「カバーアンドテープ方式」や発案者である久高弘(くだか ひろし)[注釈 3]の名を取って「久高方式」と呼ばれ、短時間で効率よく作業を行うことを可能にした[13][14][15]。その他、ガードレールを左側通行にあわせて重ね直したり[16]、交差点の改良[17]、交通の改善を兼ねて道路の拡幅を行った区間もあった[18]

1978年7月27日には、接近した台風8号に伴い、信号機や大型標識のカバーが先行して撤去された[19]

7月29日22時より、沖縄県全域で緊急自動車を除く自動車の通行が禁止され、沖縄県警察本部から県内の警察署への無線連絡により、一斉に変更作業が開始された[10][14]。変更作業は翌30日6時までの8時間で行われた[10][14]。変更作業に際しては約800人の作業員と約300台の車両が動員され、約19億円が投資された[11][14]。その間、新標識から旧標識へ目隠しの移動、新白線を隠していたテープの除去などが行われた。30日4時18分、沖縄県の管理する全ての道路で切り替え工事が終了。5時50分、一旦解除されていた自動車の通行規制が再度行われ、すべての車が停車した後、右車線から左車線に移動。6時に再びサイレンが鳴り、多くの県民が見守る中で、止まっていた車が左車線を走行し始めた[20]

変更日以降、カバーをかぶせた旧標識の撤去[21]、左側通行に適した反射材の設置[22]、土嚢などで仮設された交通島の恒久化[23]などが行われ、変更作業の総仕上げを行った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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