7月20日事件
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7月20日事件
Attentat vom 20. Juli 1944

事件後のヴォルフスシャンツェ会議室。左からハインツ・リンゲマルティン・ボルマンユリウス・シャウブヘルマン・ゲーリングブルーノ・レールツァー、氏名不明の空軍将校

時.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

1944年7月20日 (暗殺未遂)

1944?1945 (逮捕から処刑まで)

場所 ドイツ国東プロイセンラステンブルク
(現ポーランドヴァルミア=マズールィ県ケントシン)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯54度04分46秒 東経21度29分37秒 / 北緯54.079344度 東経21.493544度 / 54.079344; 21.493544 (Site of 20 July 1944 Plot at Wolfsschanze or Wolf's Lair)
結果アドルフ・ヒトラー総統暗殺およびクーデター失敗

衝突した勢力
黒いオーケストラ ナチス・ドイツ
ドイツ国防軍幹部
指揮官


ルートヴィヒ・ベック

ヘニング・フォン・トレスコウ

エドゥアルト・ワーグナー(ドイツ語版)

オイゲン・ボルツ(ドイツ語版)

アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフ(ドイツ語版)

クラウス・フォン・シュタウフェンベルク

カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル


アドルフ・ヒトラー

ヴィルヘルム・カイテル

ヴァルター・ヴァルリモント

アルフレート・ヨードル

被害者数


処刑 約5,000人

逮捕 約5,000人


ヒトラーは打撲と火傷、鼓膜を損傷したが軽症
*速記者ハインリヒ・ベルガー( Heinrich Berger)は両足を失いほぼ即死
*陸軍参謀本部作戦課長・総統副官ハインツ・ブラント大佐は片足を失い2日後に死亡
*空軍参謀総長ギュンター・コルテン大将は腹部に重傷を負い2日後に死亡
*総統副官のルドルフ・シュムント中将は、腰部の重傷で10月1日に死亡
*残りの参席者も重軽傷

7月20日事件(ドイツ語: Attentat vom 20. Juli 1944)は、1944年7月20日に発生したドイツ総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂とナチ党政権に対するクーデター未遂事件。

ナチ党の政策への反対や、第二次世界大戦における連合国との和平を目的としてドイツ国防軍反ナチス将校グループが計画、実行した。ヒトラーの暗殺とクーデターは共に失敗し、実行犯の多くは自殺もしくは逮捕、処刑された。
背景

1933年にナチ党の党首アドルフ・ヒトラーがワイマール共和国首相に就任した。ユダヤ人に対する差別政策など、過酷な政策を推進するナチスに反発し、ヒトラーの暗殺を計画、実行する個人もしくはグループが現れた。

ワイマール共和国およびナチ党政権下における国防軍とナチス党及びヒトラーとの関係は複雑なものであった。ナチスの政策、特にドイツの再軍備、軍備拡張に賛同する将校がいる一方、ナチスの主張や政策、特に国防軍に対するヒトラーや親衛隊の存在に疑問や反発を持つものや、ヒトラーが推し進める軍事力を背景とする領土の拡張政策が周辺国との戦争を引き起こし、ドイツが敗北することに懸念を持つ者もいた。

1938年のドイツによるチェコズデーテン併合時に計画されたクーデター計画が、国防軍内における反ナチス運動の嚆矢だった。ズデーテン併合によりイギリスおよびフランスから宣戦布告されることをおそれたドイツ陸軍参謀総長ルートヴィヒ・ベックは職を辞し[1]、参謀総長のフランツ・ハルダー[2]アプヴェーア次長のハンス・オスター[3]、第三軍管区司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン[4]、第二十三歩兵師団長エーリヒ・ヘプナー[5]など反ナチス派将校や民間人を集めてクーデター計画を練った。またクーデター実行犯の中にはアルトゥール・ネーベのような親衛隊の幹部も参加している[6]。計画では臨時政府の元で総選挙を実施し政治を正常化させることになっていたが、ヒトラーの扱いについては、殺害[7]、逮捕および裁判[8]、精神異常者として拘禁[8]するなど意見がまとまらなかった。さらにイギリスの首相ネヴィル・チェンバレンの提案により行われたミュンヘン会談においてイギリスおよびフランスがドイツのズデーテン併合を認めたため、クーデター計画はその根拠を失い中止された[9]

1939年のポーランド侵攻を機に第二次世界大戦が勃発し、更に1941年に開始されたソビエト連邦との戦いが泥沼化すると、国防軍将校によるクーデター計画が再燃した。1943年には東部戦線中央軍集団参謀ヘニング・フォン・トレスコウは、ヒトラーの前線視察時に暗殺する計画を立てた[10]。彼の副官ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフは、ヒトラーの専用機に爆弾を仕掛けたが不具合により起爆せず失敗した[11]。この他にもルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフなどを実行犯とするヒトラー暗殺計画が何度か企てられたが、いずれもスケジュール変更などの事情により決行されなかった[12]
経緯1944年7月15日のヴォルフスシャンツェ。


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