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千年紀:1千年紀
世紀:5世紀 - 6世紀 - 7世紀
十年紀:500年代 510年代 520年代 530年代 540年代
550年代 560年代 570年代 580年代 590年代
地中海の再統一。ゲルマン系諸国家を滅ぼし、イタリアと北アフリカを回復して、東ローマ帝国の勢威は地中海周辺に轟いた。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。サーサーン朝の栄光。画像はホスロー1世を描いたサーサーン朝時代の大皿で、パリのフランス国立図書館メダル陳列室(コイン・メダル博物館)(英語版)所蔵のもの。アクスム・ペルシア戦争(英語版)。東ローマ帝国とサーサーン朝の対立から、紅海周辺の諸国家も複雑な国際関係から紛争に巻き込まれた。画像はイエメンをめぐるエチオピアのアクスム王国とサーサーン朝の衝突を描いたエジプトの毛織物。無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダード(英語版)の細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。タミル文学の展開。南インドでは紀元前以来の伝統を持つタミル文学が体系化された。画像は インド南端カンニヤークマリ港に近年建てられた、箴言詩集『ティルックラル』でタミル文学を代表するティルヴァッルヴァルの巨像。前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟の『慧可断臂図』。六朝の都建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。隋の文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。閻立本の「歴代帝王図巻(ボストン美術館蔵)」に描かれた隋の文帝。関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。九州の装飾古墳。古墳時代後期には九州で独特な古墳が展開した。画像は福岡県宮若市諏訪神社の境内から発見された竹原古墳の横穴式石室に描かれた装飾絵画で、馬を引いた人物や竜が特徴的である。仏教公伝。日本に仏教が伝わったのは『上宮聖徳法王帝説』などの538年(宣化天皇3年)、『日本書紀』の552年(欽明天皇13年)の二説があるが、6世紀であることは間違いない。画像は欽明天皇の磯城嶋金刺宮伝承地(奈良県桜井市)に建てられた宮殿の址の石碑と、並び立つ仏教公伝の碑。扶余時代の百済。朝鮮半島南西部の百済が扶余に遷都したのは538年のことである。以来この地に独特で繊細な造形文化が発達した。画像は扶余陵山里から出土した「百済金銅香炉(英語版)(国立扶余博物館蔵)」。モチェ文化。ペルー北部海岸地帯に成立した文化で、紀元前1世紀から紀元後7世紀まで続くが、6世紀半ば以降には急速に衰退した。画像はトルヒーヨ近郊にある「太陽のワカ、月のワカ」の神殿基壇部レリーフに極彩色で描かれた最高神アイアパエクの像。東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。『ロッサーノの福音書(英語版)』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。現在はロッサーノ聖堂(英語版)教区博物館が所蔵する。エジプトのコプト正教会。歴代東ローマ皇帝の妥協にもかかわらず、エジプトでは非カルケドン派正教会が主流派であり、この時期には帝国からの分離傾向が強まった。画像は6世紀に作られたコプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている(クリーブランド美術館蔵)。アンティオキアの繁栄と凋落。東ローマ帝国シリアの要衝であり、総主教座が置かれたのがアンティオキアである。しかしこの都市も526年の大地震で多数の死傷者が出て、以後かつての賑わいは戻らなかった。画像はこの世紀前半に作られた鍍金銀細工「アンティオキアの聖杯(英語版)」(メトロポリタン美術館蔵)。ベイト・アルファ遺跡(英語版)。現在のイスラエル北部にあるユダヤ教のシナゴーグの遺跡。画像は東ローマ帝国支配の時代に作られた床面のモザイク画で黄道帯(ゾディアック)の輪が十二宮の象徴を伴って描かれている。北欧の仏像。スカンディナヴィア半島南部ではメーラレン湖周辺に多くの砦が築かれ、他地域との経済交流が行われた。画像はメーラレン湖の湖島のヘリエー(英語版)から出土した6世紀ごろに北インドで作られた青銅の仏像(スウェーデン国立歴史博物館蔵)。
6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。
できごと
500年代詳細は「500年代」を参照
502年 - 南朝の斉に代わり蕭衍(武帝)が梁を建てる
503年 - 「癸未年八月」の干支銘をもつ人物画像鏡が和歌山県橋本市の隅田八幡神社に伝わる(癸未年を443年とする説もある)。
504年 - 東ゴート国王テオドリックがゲピド族をカルパティア山脈周辺から放逐する。
506年 - アルメニア使徒教会の全主教会議により、カルケドン信条の不採択が決定される(アルメニア使徒教会の独立)。
507年
応神天皇の5世の子孫とされる男大迹王が河内国樟葉宮にて治天下大王に即位。
後に奈良時代に至り「継体天皇」の漢風諡号が撰進される。
鍾離の戦いで、梁が北魏に勝利する。
ヴイエの戦いでフランク王国が西ゴート王国に勝利。西ゴート王国は南ガリアの領土を喪失。
507年-511年頃 - フランク国王クローヴィス1世のもとで「サリカ法典」が編纂される。
507年頃 - バーミヤンの大仏(東大仏)が建造される(西大仏は551年頃)。
510年代詳細は「510年代」を参照
510年代 - エフタルのトラマーナ王と続くミヒラクラ(英語版)王がインドにたびたび侵入する。
インドに定着したミヒラクラ王により大規模なインドにおける仏教の弾圧(破仏)が行われる。
511年
フランク国王クローヴィス1世が死去し、領土はソワソン・パリ・ランス・オルレアンの各王国に分割される。
西ゴート国王アマラリックが即位。外祖父の東ゴート王テオドリックが摂政となり、両ゴート王国を統治。
梁の武帝が僧侶に向けて「断酒肉文」を布告。
512年
『ウィーン写本』が作成される。
古代ローマの医師ディオスコリデスが著した『薬物誌』の写本のひとつで、西ローマ帝国の皇女であった貴婦人アニキア・ユリアナ(英語版)(462年 - 527/528年)に献上されたもの。
日本が百済に対し任那の四県二郡を割譲する。
513年 - 百済から五経博士の段楊爾が来日する(日本最古の五経博士の記録)。
515年 - 北魏で大乗の乱が起こる。
518年 - ガリラヤ湖畔のベト・アルファ(英語版)のシナゴーグの床モザイク壁画が作成される( - 527年)。
520年代詳細は「520年代」を参照
520年
インドのグプタ朝が分裂し統一王朝は崩壊。グプタ朝の版図は北ベンガルとビハールに限定される。
北魏の使者である宋雲と恵生がバダフシャン付近でエフタル王ミヒラクラに謁見する。
インド出身の達磨が海路を通って広州に到着する。
ラヴェンナに東ゴート国王のためのテオドリック廟が建立される。
520年頃
スウェーデン・ウプサラ大学カロリーネ図書館所蔵のゴート語訳『コデックス・アルゲンティウス(英語版)(銀文字聖書)』が作成される。
523年
北魏で六鎮の乱が起こる。
百済の武寧王が死去し、聖王が即位。
武寧王は忠清南道公州市(熊津)の宋山里古墳群の武寧王陵に葬られる。
南アラビアのヒムヤル国王ズー・ヌワースがユダヤ教に改宗し、キリスト教徒を弾圧(ナジュラーンの迫害)。
524年頃 - 東ゴート王国の執政官であったボエティウスが処刑される。この時期までに『哲学の慰め』が執筆される。
525年
東ローマ帝国の援助を得たアクスム王国がヒムヤル王国を滅ぼす。
東ローマ帝国のエデッサで大洪水の被害、後にユスティノポリスと改名し再建される。
城壁の再建の途中でキリストの「自印聖像(マンディリオン)」が発見される。
525年頃