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55年体制(ごじゅうごねんたいせい)は、日本において、与党第1党自由民主党が国政選挙で単独過半数を占め続けることで政権を維持し、野党第1党日本社会党とその他非自社政党の合計で3分の1を占め、憲法改正と再軍備を阻止していた(非武装中立を是とする)体制。1955年(昭和30年)に自民党・社会党(+その他)の2:1構図が成立したためこう呼ばれる。
初出は、社会党が衰退・政権を担うことを狙う新党が乱立する時代となった1964年(昭和39年)に政治学者の升味準之輔が発表した論文「1955年の政治体制(『思想』1964年4月号)」である。
与党の自民党は、改憲を志向しつつも軽武装路線を行った。野党第一党の社会党は途中から過半数の候補者を選挙に擁立自体せず、政権交代は狙わない万年野党である代わりに、憲法改正を発議させない3分の2の議席阻止と労働組合の維持を狙った。野党第三勢力の民社党と公明党は社公民路線や自公民路線などで自社両党に接触し、日本共産党は社会党との革新陣営内対立はありながらも社共路線を取ったりしていた。
政治とカネ[1]のスキャンダルによって自民党が国民の信頼を年々減らしていく一方、ソ連崩壊で冷戦が終結し、自由民主主義の勝利に終わると、自由民主主義か社会主義(共産主義)かという保革イデオロギー対立の重要度は薄まった。以降の1990年代の政界再編期に入り、旧来の保革イデオロギー対立は、冷戦の終結とも呼応して、政党間対立軸としての重要性を低下させ、政治改革(中選挙区制廃止などの選挙制度改革)への賛否が対立軸となった。右派は旧来の自民党の「保守党型大きな政府」路線と政治改革への賛否で分裂した。そして、冷戦の敗北側のイデオロギーを支持していた社会党も、旧来の投票層から政権交代を狙えない「万年(左翼)野党」の立場から政権交代を狙える中道的政党を望む声が台頭していくことで支持を失っていった。後に社会党からの移動者らも参画して誕生した民主党(1998年結党)は都市的利益を代弁している政党とみなされたことで、自民党の対抗勢力として成長した[2][3]。
1993年(平成5年)の衆議院議員総選挙において、自民党議員らが分裂による過半数割れ、社会党も惨敗となるなか、多数誕生した新党が議席を伸ばした。この結果、非自民党連立政権となる細川内閣が成立し、55年体制は崩壊した。 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領下の日本において、GHQ指令により無産政党(日本社会党や日本共産党など)が合法化される一方、同時に保守政党が乱立する事態が発生した。 一方で日本社会党は、1951年(昭和26年)に講和条約と日米安全保障条約(安保)に対する態度の違いから右派社会党・左派社会党に分裂していたが、保守政権による「逆コース」や改憲に対抗するために、「護憲と反安保」を掲げて1955年(昭和30年)に社会党再統一が行われた。この日本社会党の統一に危機感を覚えた財界からの要請で、それまで存在した日本民主党と自由党が保守合同して自由民主党が誕生し、保守政党が第1政党となった。見かけ上は二大政党制となり広く歓迎されたが[4]、基本的な議席の割合は自民党2/3・社会党1/3であり、二大政党制の長所であるはずの政権交代円滑化に資することはなかった。自民党は「改憲・保守・安保護持」を、日本社会党は「護憲・革新・反安保」を、それぞれ標榜した。 1955年(昭和30年)当時の世界情勢はアメリカ合衆国とソビエト連邦が主導する冷戦の真っただ中であり、55年体制も冷戦という国際社会に合わせた、いわば代理戦争としての日本国内の政治構造(「国内冷戦」)であると指摘する意見がある[4]。元歴史学者の與那覇潤は、期せずしてそれなりに江戸時代を再現したところがあるとしている[5]。政治学者ジェラルド・カーティスは、「戦後の日本の自民党一党支配体制は、民主主義的だったと思います。その中には、革新陣営には社会党や、またその時は公明党も革新の方だったから、公明党、民社党、あと共産党がいましたが、やはり自民党に対してブレーキをかける役割を果たしていましたし、野党が国民に人気のあることを提案すると、自民党はそれを自分たちの政策にしていました」と述べている[6]。 自由民主党は押し付け憲法論を主張、自主憲法制定を党是に定めた。1958年(昭和33年)の総選挙では互いに過半数にのぼる候補を立て、真っ向から争った。投票率76.99%は男女普通選挙になってからでは最高の記録であり、二大政党制への国民の関心の高まりを示したものといえた。その結果、定数467で自由民主党287議席(他、追加公認11)、日本社会党166議席(他、追加公認1)となり、二大政党の公認候補だけで全体の97%の議席を占めた。これは総選挙最高峰の記録である。しかし、議席数は追加公認を含めると、自由民主党が1議席を減らしただけの圧勝であり、日本社会党は7議席を増やしたものの、護憲に必要な3分の1の議席を確保したに留まった。 このように、二大政党制といっても国会の議席数では自由民主党と日本社会党の勢力比は2:1であった。そのため、「一と二分の一政党制(一か二分の一政党制)」とも呼ばれる。この保守と革新の“2:1”の比率は、保守分裂のため社会党が第1党になった1947年(昭和22年)の総選挙の時点で既に現れていた。 55年体制は、自由民主党から日本社会党への政権交代が実現できない一方、保守政党は国会で憲法改正のための3分の2以上の議席を確保できなかったことから、政権交代と憲法改正のない体制とされる。 戦後暫くは、いわゆる諸派・ミニ政党がしばしば議席を獲得していた。しかし55年体制が久しくなると、参議院で一時的にミニ政党が進出した時期もあるが、衆議院で議席を獲得することはほとんどなくなった。 初代自民党総裁は日本民主党の総裁であった党人鳩山一郎が務めたが、後継の石橋湛山が脳梗塞により退陣すると、官僚機構の扱いを心得ている商工省出身の岸信介や吉田学校の池田勇人・佐藤栄作ら官僚派がトップの座を占めるようになった。
経過
体制成立の背景
「一と二分の一」の確定衆議院における二大政党の得票率・議席占有率(緑が自民党=下目盛り、紫が日本社会党=上目盛り)
55年体制前半期における自由民主党内事情