50年問題
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襲撃を受けた岩之坂交番(1952年6月25日、東京都板橋区)

51年綱領[注釈 1](51ねんこうりょう)または51年テーゼ(51ねんテーゼ)とは、1951年昭和26年)10月の日本共産党第5回全国協議会(五全協)で採択された綱領『日本共産党の当面の要求 - 新しい綱領』のことである。
概要

五全協は当時の党主流派であった所感派主導のもとで開催され、「日本の解放と民主的変革を平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがい」と記載した本綱領と、同時に「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」とする『軍事方針』を採択した[2]。これらは暴力革命必然論に基づく武装闘争方針であり、この方針に基づき警察襲撃事件が相次いだ[3][4]

第25回衆議院選挙で候補者全員の落選を招いたため、日本共産党は「一つの重要な歴史的な役割を果たした」と評価し、これを廃止した。その後も綱領集に掲載されるなど、正規の旧綱領・旧方針であったことは30年以上にわたり公式に否定されていなかったが、1993年6月25日のしんぶん赤旗2面で『51年文書』と格下げ表明して以降、日本共産党は正規の党綱領であった過去を認めない姿勢を採っている[5]
経緯
「50年問題」の発生

1950年1月6日[6]コミンフォルムが「日本の情勢について」と題する論文を機関誌『恒久平和のために人民民主主義のために!』に掲載し、野坂参三らが主張していた平和革命戦術について、"日本は米国の完全な従属化にあるにもかかわらず、日本共産党の一部のものは、米軍の撤退を求めて独立を闘いとることもしないのみか、占領下においても社会主義への平和移行が可能であるとさえいっている。このような野坂のいう平和革命論は、米軍とその背後にある資本家勢力を美化し、日本の人民を欺く理論であり、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないもの"と痛烈に批判した(『コミンフォルム批判』)[7][8][9][10][11]

当初日本共産党はこれをデマと見做し、1月8日に中央委員会・統制委員会連名で「この外国電報を信ずるなら同志スターリンはすでに二〇たび死んだであろうし、同志毛沢東は一〇たび誤りを犯したことになるであろう」と声明を出した(『党撹乱のデマを打ち破れ』)。しかし、これが事実であることが間もなくわかり、党に混乱が生じた(「50年問題」)[7]

日本共産党書記長徳田球一ら党主流派はコミンフォルム批判に対し「日本の情勢を十分考慮していない」と反論する『「日本の情勢について」に関する所感』を1月12日に発表。逆にコミンフォルムに賛同する宮本顕治[注釈 2]はこれに反発して、「右翼日和見主義」「民族主義」「チトー主義者」などと徳田らを攻撃した[13]。徳田を支持する者たちと宮本を支持する者たちとが、それぞれ「所感派」・「国際派」と呼ばれるグループを形成した[注釈 3][7][10][14]。両者は激しく罵り合い、党の分裂は誰の目にも明らかとなった[12]

1月17日、中国共産党機関紙『人民日報』が、アジア大洋州労働組合会議での劉少奇の報告内容に沿う形で、コミンフォルム批判を肯定し革命において議会闘争は補助手段にすぎないとする「日本人民解放の道」を発表。これを受けて所感派はコミンフォルムの論評について「積極的意義を認める」と方針転換して事態収拾を図るが、その後も文書による非難合戦や分派形成と党員除名の応酬が相次いだ[10][12][15]

6月6日、緊迫する朝鮮半島事情を受けて、GHQ指示のもとでレッドパージが始まり、徳田らは地下に潜伏。所感派によって組織された椎名悦郎を議長とする臨時中央指導部(臨中)は、6月22日に「分派主義者との闘争」を決議し、各党組織の二派の間で泥仕合が展開された[16]。9月3日に『人民日報』が「今こそ日本人民は団結して敵と闘うべきである」とする社説を出すが、これは事実上の臨中への帰順の呼びかけであった[17]
所感派による党掌握、『51年綱領』の採択

翌1951年2月、ソ連・中共の指示のもと、所感派は第4回全国協議会を開催して軍事方針を含む行動指針を採択。コミンフォルムは同年8月10日にこれを支持をする論文を出し、モスクワ放送を通じて「国際派は所感派主導下の党戦列に復帰すべきである」と日本国内の共産分子に対して呼びかけた。これにより所感派が日本共産党を掌握した[10][15][17]。「日米反動を利する」分派活動としてコミンフォルムから批判された宮本らは、自己批判書を書いて所感派による日本共産党に復帰した[17][18]

続いて日本共産党は同年10月に第5回全国協議会[注釈 4]を開催し、その中で『日本共産党の当面の要求 - 新しい綱領』(『51年綱領』)を採択した[10][15]

『51年綱領』の主な内容としては、以下のとおりである[10][15]

日本はアメリカ帝国主義の隷属化にある半封建的な植民地的国家である

したがってこのアメリカの支配から我が国の国民を開放するためのいわゆる「民族解放」と32年テーゼに規定する我が国の半封建的な反動勢力を打倒するという「民主主義革命」とを結合した「民族解放民主革命」が当面する革命の任務である

日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである(これまでの平和革命方式を捨て、暴力革命を採ることを表明)

この文章は、「米占領軍が日本のいたる所で耐えがたいような状況をつくることが必要だが、このためには愛国勢力の統一戦線結成を考えなくてはならない」とのヨシフ・スターリンの意向のもと、朝鮮戦争の兵站基地にあたる日本での後方撹乱を目論むソビエト連邦共産党側の指導によるものであり、国共内戦で成功を収めた「農村が都市を包囲する」という人民戦争理論が盛り込まれていた。なお、モスクワに派遣されていた国際派に属する袴田里見もこの内容に同意している[18][19]

5全協では、『51年綱領』とともに『われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない』と題し「占領制度を除き、吉田政府を倒す闘いには、敵の武装力から味方を守り、敵を倒す手段が必要である。この手段は、われわれが軍事組織をつくり武装し、行動する以外にない」「われわれの軍事的な目的は、労働者と農民のパルチザン部隊の総反抗と、これと結合した、労働者階級の武装蜂起によって、敵の兵力を打ち倒すことである」[20]などとした軍事方針武装行動綱領(『軍事方針』)も打ち出された。日本共産党は火炎瓶を用いた武装闘争に突入し、殺人事件や騒擾事件をひきおこした[注釈 5][21][22]


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