4-D
別名4-D mode 1
4-D mode 2
4-D mode 0
出身地 日本・兵庫県神戸市灘区桜ケ丘町
(結成時の事務所「pH-OFFICE」所在地)
ジャンルニュー・ウェイヴ
テクノ/テクノポップ
エレクトロニカ/エレクトロ・ポップ/エレクトロニック・ロック
インダストリアル/インダストリアル・ロック
活動期間1982年 -
レーベルpH-OFFICE → テレグラフ・レコード → IRON BEAT MANIFESTO → 4-D Label
事務所pH-OFFICE → IRON BEAT MANIFESTO → 4-D Label
共同作業者アマツガク
4-D(フォーディー)は、1982年10月に結成された日本の音楽ユニット[1]。1980年代は4-D mode1、4-D mode2、4-D mode0の3形態(それぞれモードワン、モードツー、モードゼロと読む)で活動していたが、現在は4-D mode1のみ活動継続している。2012年には結成30周年を迎えた。
「飢餓同盟」を経て、泉陸奥彦とともにプログレッシブ・ロックバンド「DADA」のメンバーであった小西健司、大阪のフュージョンバンド「99.99」(フォー・ナイン)のメンバーであった成田忍と横川理彦、神戸でイベンター「FREE ALL!」を主宰していた中垣和也の4人により結成された[1][2]。中垣が「オーガナイザー」を名乗ってマネージメントを担当し、神戸市灘区桜ケ丘町に自身の事務所「pH-OFFICE」(ペーハー・オフィス)を構え、関西を拠点に活動していた。 全員が作詞・作曲、ボーカルをこなす。楽曲は基本的に一人が作詞と作曲をするため、曲を作ったメンバーにより曲調がかなり異なる。1980年代の第1期4-Dでは、ボーカルを「ボイス」と表記していたため、以下それに倣う。
メンバー
オリジナルメンバー
小西健司(こにし けんじ)- ボイス、シンセサイザー、キーボード、コンピュータプログラミング「アイアンビート」を標榜し、ドイツのインダストリアル・ロック調の金属的な音とアップテンポの激しい曲を好む。コンピュータプログラミングを担当し、自らのシステムを「Ichie System」と名付け、名称は「一期一会」にちなむとライブでも紹介していた。4-D結成当時はKORGのアナログシンセサイザーを愛好しており、作品のクレジットには「4-D uses KORG synthesizers.」と必ず書くほどだった。しかしFM音源を搭載したヤマハ・DX-7が発売されると使用するようになった。1980年代の第1期4-Dでは「小西 "HIROHITO" 健司」とミドルネームを名乗っていた。ライブでは特攻服を着たり右翼のような扮装で現れ、曲の間奏やMCで演説したりしていた。また京都のサブカルチャー雑誌『PELICAN CLUB』(ペリカンクラブ)の4-Dインタビューで「街宣車に乗りたい」などと発言していた。一方でXデーを風刺した反天皇制的な歌詞の楽曲を作り歌ったりしていたが、同じ関西で京都を拠点としていたEP-4と同様に「菊タブー」を意識していただけで、必ずしも政治的イデオロギーが強いわけではない。
成田忍(なりた しのぶ)- ボイス、ギターメンバーの中では曲調が最もポップで、歌詞も捻った感じのラブソングを得意とする。第1期4-D活動休止後、いち早くメジャーデビューを果たす。1990年代以降は音楽プロデューサーとしても幅広く活動。
横川理彦(よこがわ ただひこ)- ボイス、ベース、ヴァイオリン4-Dを特徴づけるヴァイオリニスト。青いエレキヴァイオリンがトレードマークで、多数の弦楽器をこなすマルチプレイヤー。ソロ活動では「横川タダヒコ」表記だった時期もあるが、4-Dでは漢字表記。アフター・ディナーと並行して活動していた。メンバーでは唯一の中国地方出身(他は関西)。京都大学哲学科出身という異色の経歴。近視で眼鏡着用。ライブで東京へ来た際に、見慣れぬ回転ドアに激突して眼鏡が割れたと『PELICAN CLUB』の4-Dインタビューで語っていた。
中垣和也(なかがき かずや)- オーガナイザー1980年代の初期4-Dのキーパーソン。当時は「オーガナイザー」を名乗り4-Dをまとめ、マネージメントを一手に手掛けていた。4-Dでは「中垣 "MARC" 和也」とミドルネームを名乗っていた。
4-D mode 1
小西健司
成田忍
横川理彦
4-D mode 0