4-D_(音楽ユニット)
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小西健司

成田忍

横川理彦

4-D mode 0

小西健司:ボイス、Ichie System、他

中垣和也:ボイス、ギター、他

福島聰介(ふくしま そうすけ):ベース

西原朗:ワイヤーベース

倉田泰成:ドラムサウンドサンプル


4-D mode 2

女性ボーカリスト、中国人キーボーディストをフィーチャーした別ユニット。ソノシートを2枚リリース。

梗(きょう)- ボイス

周明(しゅう めい)- キーボード

小西健司 - コンピュータプログラミング

ゲストメンバー

アマツガク(天津学)- グラフィックデザイン

後藤貴代子(ごとう きよこ)- 作詞・作曲、写真など

宇都宮泰(うつのみや やすし)- サウンドエンジニアリング

歴史
1980年代

1980年代には、当初からメインとなり現在も活動中の「4-D mode 1」、女性ボーカルをフィーチャーした別ユニット「4-D mode 2」、中垣も演奏に加わった「4-D mode 0」の3形態で流動的な活動を行っていた。また同じく神戸を拠点としていたHacoと宇都宮泰(当時)の音楽ユニット・アフター・ディナー (After Dinner) と親しく交流があり、ライブやレコーディングなどの活動で協力関係にあった。また横川理彦は「After Dinner」の正式メンバーとしてレコーディングにも参加し、国内でのライブやヨーロッパツアーにも参加している。

1980年代のシングルはすべてソノシートで制作され[3]、pH-OFFICEからリリースされたソノシートはライブ会場やブティックなどでゲリラ的に無料配布しており、対価を取って販売することはなかった。また遠方のファンには在庫がある限り、送料実費(定額小為替で送金)のみ負担で無料発送も行っていた。ソノシートを無料配布していた理由として、多くの人に曲を聴いてほしいし、売っても儲からず元は取れないからいっそ配ってしまおうと考えたと、中垣は述べている。無料ソノシートながらジャケットデザインは凝ったもので、印刷したものに手作業でラメを塗ったりリボンを貼り付けたりしていた。この作業はメンバー自らが行っていたという。

1983年から翌1984年までに無料ソノシートを8枚リリース後、1985年に「4-D mode 1」名義でテレグラフ・レコードからファースト・アルバム『A Style of Building』をリリース[3]。4-Dでは基本的に自身のレーベルから作品をリリースしているが、ファーストアルバムは初の他者主宰レーベル、しかも東京(当時)のインディーズレーベルであった。その頃にはテレグラフを主宰する写真家の地引雄一と交流を持ち、1983年8月には新宿LOFTで5日間にわたり開催されたテレグラフのイベント「CASE OF TELEGRAPH/ PRODUCTS 5」にも出演した。このライブの模様は2枚組LPにまとめられた(のちCD再発)[4]が、4-Dの演奏は収録されなかった。

ファーストアルバムのジャケットデザインは、ソノシート以上に大変凝ったものであった。プラスチック素材のハードタイプクリアカードケースのようなカバーに縦縞模様を印刷し、中に入ったジャケットの紙にはその縦縞の幅で分割された2種類の写真が印刷され、ジャケットの紙をずらすと異なる絵柄が見えるというものであった。さらにケースの縦縞の色が異なる数種類のバリエーションが存在するという、テレグラフから発売されたレコードの中では最も贅を尽くしたジャケットとなった。東京ロッカーズを源流に持ち、削ぎ落とされたシンプルさを良しとするテレグラフ系アーティストの中で、4-Dの細部にまで凝り尽くしたレコードは異彩を放っていた。

こうした凝ったジャケットデザインは、4-Dの「第5のメンバー」といえる存在であった「Modern Club」のグラフィックデザイナー・アマツガク(天津学)によるものであった。アマツガクは10代の頃から音楽活動と並行してグラフィックデザイナーとしても活動を開始。 1984年に4-D mode 1の5枚目のソノシート「F-1」の ジャケットデザインを担当して以来、4-Dのデザインコンセプトとアートワーク全般を手がけるようになった[5]

また、アフター・ディナーのジャケット写真を手がけた写真家の内池秀人(うちいけ ひでと)も4-Dの活動に参加していた。なお、アフター・ディナーのアルバムジャケットも凝っており、シルクスクリーン印刷で数色のバリエーションがあったり、歌詞カードの冊子がページごとに大きさが変わり中央に行くほど小さくなるというデザインであった。大阪を拠点としていた阿木譲の音楽雑誌『ロック・マガジン』やカセットブック『EGO』でも非常に凝ったデザインが施されるなど、当時の関西インディーズシーンでの一種の流行であったと言える。

ファーストアルバムのリリース後は活動を休止し、メンバーはそれぞれソロ活動や他のバンドへ参加するなどしていた[1]1985年4月には成田忍が「URBAN DANCE」(アーバン・ダンス)としてメジャーデビュー、横川理彦はアフター・ディナーと並行してP-MODELに参加、1985年発売のアルバム『KARKADOR』をレコーディングしライブにも出演したが、短期間で脱退している[2]
1990年代

1990年代には小西健司のユニットとして4-Dが再始動し[1][2]1991年に小西のレーベル「IRON BEAT MANIFESTO」から「4-D」名義(modeなし)で初のCD『ANALYZE』をリリースした[3]。1993年、同レーベルから「4-D」と「T - K - M」の共同名義でアルバム『Subconscious Unity』をリリース[3]

その後、小西が平沢進に呼ばれてP-MODELに参加するため上京したこともあり、4-Dとしての活動はふたたび休止する。
2000年代以降

2000年代に入るとオリジナルメンバーによる4-D再始動の機運が高まり、2004年には小西、成田、横川の3人で「4-D mode1」を再始動する。2006年には過去の全ソノシート(mode 2、mode 0も含む)とファーストアルバムを全曲収録した『Die Rekonstruktion』をリマスターCDとしてリリースした[3]。アルバムタイトルは「再建、復興、復元」などを意味する。

2008年2月21日には、自らの新レーベル「4-D Label」から、オリジナルメンバーによる実に23年ぶりのニューアルバム『Rekonnekted』(リコネクテッド)をリリース[5]。アメリカのシンセポップ専門レーベル「A Different Drum」からもリリースされた[5]。組み立て式特殊ヘキサゴン仕様ジャケットを採用し[5]、ジャケットへのこだわりも往年を彷彿とさせた。翌2009年にはマキシシングル『VERY』をリリース[5]2009年10月28日には「4-D mode 1+平沢進」名義でシングル『緋色のCrew』をリリース[5]2010年2月22日にはマキシシングル『-17℃』をリリース[5]。いずれもライブ会場とディスクユニオン、shop MECANOで限定販売した[5]

2009年4月18日・19日には参宮橋駅前のギャラリー「Shop and Gallery Tray」で「Gaku Amatsu Works 4-D Sight Code ?視覚暗号・4-Dとその周辺?」と題して、長年共同作業を続けているアマツガクと4-D mode 1が共演し、インスタレーションとライブを融合した視聴覚に訴えるイベントを開催した[6]

2012年9月21日には、結成30周年記念アルバム『in -胤-』をリリース[7]。4-Dの原点となった1983年のファースト・ソノシート『After Dinner Party』のリメイクバージョン「After Dinner Party 2012」ほか全11曲を収録した久々のフルアルバムとなった[7]

2013年には3曲入りマキシシングル『Wheel』をリリース[7]。同年10月には3曲入りマキシシングル『DRIVE』をリリース[7]。2014年1月には3曲入りマキシシングル『Wieder』をリリース[7]。いずれもライブ会場とディスクユニオン、shop MECANOで限定販売した[7]

ライブ活動も継続しており、2017年12月15日には大阪市西区南堀江のライブハウス「SOCORE FACTORY」で「4-D mode 1」としてライブに出演した[7]。また、成田忍と横川理彦の2人ユニット「Blanc」も始動し、2017年12月22日高円寺のライブハウス「高円寺HIGH」でファーストライブを行った[7]
ディスコグラフィー
ソノシート

いずれも無料配布、片面収録。


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