『4分33秒』(よんぷんさんじゅうさんびょう、4'33”)は、アメリカの音楽家ジョン・ケージが1952年に作曲した曲である。ケージの作品の中で最も知られており、音楽に対するケージの思想が最も簡潔に表現された作品でもある[1]。
楽譜では4分33秒という演奏時間が決められているが、演奏者が出す音響の指示がない。そのため演奏者は音を出さず、聴衆はその場に起きる音を聴く。演奏者がコントロールをして生み出す音はないが、演奏場所の内外で偶然に起きる音、聴衆自身が立てる音などの意図しない音は存在する[2]。沈黙とは無音ではなく「意図しない音が起きている状態」を指し、楽音と非楽音には違いがないというケージの主張が表れている[3][4]。
ケージ自身によれば、1940年代から沈黙について考えており、さらに無響室での体験と絵画作品が作曲のきっかけだった[5][6]。初演当時から賛否が分かれたが、この作品によって楽器などの伝統的な音だけでなく、あらゆる音を音楽として意識させることになり、多大な影響を与えた。作曲には偶然性の手法が使われ、音楽家が感情や価値判断に影響されずに作曲することを目指した[7][4]。
作品の経緯
発端ジョン・ケージ(1988年)
ケージの回想によれば、沈黙の曲の始まりは1940年かもしれないとされている[注釈 1]。当時のケージは雇用促進局の娯楽部門で働いており、サンフランシスコ病院に来る子供たちを楽しませる仕事をした。患者を邪魔しないために音を立てないという条件があり、これがアイデアの源になった。また、ハンス・リヒターの映画『金で買える夢
(英語版)』(1947年)で音楽を担当した時には、2小節の音楽のあとに2小節の沈黙が7回ある曲を作った[6]。1948年にヴァッサー大学で行った講演『作曲家の告白』において、ケージはいくつかの新しい欲求を語り、その中に沈黙についての構想があった。それはさえぎられない沈黙の曲を書き、ミューザック社
(英語版)に売るというものだった。曲の長さは3分から4分半で、曲名は『サイレント・プレイヤー(Silent Prayer)』である[注釈 2][10][11]。ミューザック社は1934年設立で、企業にBGMを販売する事業を行っていた。3分から4分半という曲の長さは、ミューザック社も音楽配信に使用していたSPレコードの再生時間が約4分半であったことに由来し、音楽の長さが技術で規定されていることを皮肉ったものである。技術による管理を音楽に持ち込んだミューザック社に「さえぎられない沈黙」を売る、というのがケージのアイデアだった[12][注釈 3]。1951年のある日、ケージはハーバード大学の無響室を訪れた[注釈 4]。無音を聴こうとして無響室に入ったが、彼は二つの音を聴いた。一つは高く、一つは低かった。エンジニアにそのことを話すと、高いほうは神経系が働いている音で、低いほうは血液が流れている音だという答えだった。無音を体験しようとして入った場所でなお、音を聴いたことに「私が死ぬまで音があるだろう。それらの音は私の死後も続くだろう。だから音楽の将来を恐れる必要はない」と強い印象を受けた[16]。『サイレント・プレイヤー』で、さえぎられない沈黙を構想した時期とは異なり、完全な無音は不可能であるという認識を得た。ケージは以後、沈黙とは意図しない音が起きている状態であると定義する[3][17]。 ケージは1950年代から偶然性を作曲に取り入れるようになり、そのために『易経』をしばしば使った。ケージが音楽を教えた作曲家クリスチャン・ウォルフの両親は出版を仕事にしており、英訳した『易経』を渡されたのがきっかけだった[注釈 5]。ケージは『易の音楽
偶然性の手法
コロンビア大学で1951年に演奏した『心象風景第4番(英語版)』では、ラジオ12台を使った。受信する局、音量、流す長さは『易経』で偶然に決めたため、放送していない局につながる時も多く、しばしば無音だった。ケージは、沈黙は音と同じく音楽の一部であると語った[注釈 8][23]。
ケージはこの時期に作曲家・指揮者のピエール・ブーレーズと交流を始めた。1949年にパリでケージとブーレーズは会い、作曲における偶然性について意見を交わすようになり、特に1949年から1952年にかけて多数の書簡を交わした。美学的には異なる2人だが、周囲の音楽環境が旧来の価値観に支配されている中で、互いに刺激を与え合った[注釈 9][25][26]。また、ブーレーズの作品は、のちに『4分33秒』を初演するデイヴィッド・チューダーと出会うきっかけにもなった[27]。 ピアニストのデイヴィッド・チューダーとの出会いは、ケージに大きな影響を与えた[注釈 10]。ケージは1949年にブーレーズから『ピアノ・ソナタ第2番』の楽譜を贈られ、その複雑さに驚いた。作曲家のモートン・フェルドマンは、ブーレーズのソナタを弾くにふさわしい人物としてチューダーをケージに紹介した。楽譜を託されたチューダーはその内容を理解するだけでなく、フランス語を学んで文献を読み、作曲当時のブーレーズに近づこうとした[注釈 11]。その結果、『ピアノ・ソナタ第2番』のアメリカ初演(1950年)は成功し、ケージはチューダーを高く評価した。自分たちのどんな作品もチューダーなら演奏できるとケージは考えた[注釈 12][27][29]。 本楽曲の別の影響源として、視覚芸術の分野も言及されている。ケージは友人の作曲家ルー・ハリソンの招きでブラック・マウンテン・カレッジを訪れ、画家のロバート・ラウシェンバーグと知り合った[注釈 13]。ラウシェンバーグは「ホワイト・ペインティング」のシリーズを制作しており、これはキャンバスに白いペンキだけを塗ったもので、照明や人物の影などによって変化するキャンバス表面の表情そのものを作品とした。ケージはラウシェンバーグについて、自分との共通点がありすぎて会った時からほとんど話す必要がないと感じ、ラウシェンバーグの作品を見てすぐに納得した。ケージはラウシェンバーグの絵を見て、自分がこれをやらなければならなかったと考えた。そこで無音を空白のキャンバスとして使い、毎回の演奏をとりまく環境音の流転をそこに反映させようとした[注釈 14]。ケージは1952年にブラック・マウンテン・カレッジでパフォーマンスを行い、ラウシェンバーグの白い絵を使った[注釈 15][34][11][32]。 前述のような体験をへて、ケージは1952年に『4分33秒』を作曲した。ケージは偶然性の手法として、『4分33秒』ではタロットカードを使用した。手作りのカードに時間を書き入れてシャッフルし、カードに書かれた沈黙の長さを足して各楽章の長さを決定した。結果的に第1楽章30秒、第2楽章2分23秒、第3楽章1分40秒で合計4分33秒になり、初演の楽譜が完成した。ケージによれば、音がない点をのぞいては曲を作るのと同様に行い、積み上げていったら4分33秒になったと語っている[35]。沈黙の作品を発表することにケージがためらい、作曲の作業がとどこおったため、演奏者のチューダーがケージを急かして完成させたといわれている[36]。 楽譜にはいくつかのバージョンがある。1952年の初演に使われた12ページの楽譜は通常ピアノ曲で使う大譜表であり、どんな楽器でも演奏できると表紙に書かれており、縦に数本の線が引かれて各楽章の時間を表した。翌年に友人のプレゼント用に作られた1953年のバージョンは、白線に6本の縦線が入っていた[37][38][36]。1960年に出版されたバージョンは1枚の紙であり、各楽章に総休止を表すtacetが指示されている。また、全楽章の合計が4分33秒であれば各楽章の長さは自由であると書かれている[39]。左側が1960年版の原語、右側がその日本語訳である。 I 第1楽章 1952年8月29日にニューヨーク州ウッドストックで開催された慈善コンサートで、デイヴィッド・チューダーが演奏した。会場となったマーベリック・コンサートホール ケージは1952年夏にブーレーズにあてた手紙で、チューダーがブーレーズのピアノ・ソナタ第1番
演奏者との出会い
視覚芸術の影響
作曲・楽譜
TACET
II
TACET
III
TACET
休み
第2楽章
休み
第3楽章
休み
演奏初演会場のマーベリック・コンサートホール
初演
初演後、ケージとその作品は注目され賛否を浴びた。ファンからの手紙は増えたが、新聞では敵対的な批評が掲載され、『4分33秒』は新聞のゴシップ欄で紹介された[注釈 18]。クリスチャン・ウォルフの母は、易経でこの曲について伺いを立てたら「若気の愚行」という結果が返ってきた、とケージに言った[44]。 『4分33秒』を作っていた1950年代前半のケージは金銭的に苦境にあり、さらには住んでいたロウアー・イースト・サイドのアパートが都市計画で取り壊しが決まった[注釈 19]。ケージは1955年にニューヨーク市を去り、郊外のストーニーポイントに引っ越した。ストーニーポイントの森林でキノコ採集にいそしみ、キノコを見分けるときの沈黙で『4分33秒』を演奏した[注釈 20][47][48]。 1962年にケージが初来日した際には、『4分33秒』の続編にあたる『0'00”』が作曲され、草月ホールでケージによって初演された(後述)。 映像作品でも『4分33秒』の演奏が流され、ケージ自身が出演するときもあった。美術家・ビデオアーティストのナム・ジュン・パイクは『ジョン・ケージ讃』(1974年)というテレビ番組を製作し、ボストンのWGBH-TVで放送された[注釈 21]。この番組ではケージによる『4分33秒』の演奏があり、ニューヨークのハーバード・スクエア
1950年代-1960年代
1970年代 - 1980年代
1982年は、ケージの70歳を記念するイベントがニューヨーク、東京、ミラノ、プエルトリコのサンフアン、パリなど世界各地で行われた。ニューヨークのアッパー・ウエスト・サイドでは「すみからすみまでジョン・ケージ」というマラソン・コンサートで26作品が演奏され、『4分33秒』はチューダーが演奏した[51]。
ケージは1989年11月に京都賞受賞のために来日した[52]。京都では11月12日に記念講演とコンサート、名古屋では11月14日に記念コンサートが開催され、コンサートを企画した藤島寛はケージに『4分33秒』の演奏を依頼した。