343人のマニフェスト (Manifeste des 343; 通称「あばずれ女343人のマニフェスト」) とは、1971年4月5日に「マニフェスト『私は中絶手術を受けた』に署名する勇気のあるフランス人女性343人の一覧」と題して『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール
(フランス語版)』誌第334号に掲載された中絶の合法化を求める請願書である[1][2][3]。この運動は1975年1月17日法(ヴェイユ法; 「妊娠中絶法」)成立への道を切り開くことになった。当時、フランスでは刑法典317条により中絶は「堕胎罪」として処罰を受ける非合法行為であった。人工妊娠中絶の合法化を求めて「343人のマニフェスト」に署名した女性たちは、法に触れることを覚悟の上で、あえて堕胎の経験を公にすること決断をした[2][4][5]。
発端は、当時『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌のジャーナリストであったジャン・モローとニコル・ミュクニック、および(シモーヌ・ド・ボーヴォワール、クリスティーヌ・デルフィらとともに雑誌『新フェミニズム問題
(フランス語版)』を主宰していた)フランス家族計画運動の副会長シモーフ・イフ(フランス語版)の呼びかけによるものであり、特にシモーヌ・イフが多くの著名人に直接連絡を取り、署名を求めた[6]。また、「マニフェスト『私は中絶手術を受けた』に署名する勇気のある」女性たちは当然「あばずれ女 (salope)」扱いされることを覚悟していたが、「あばずれ女343人のマニフェスト」という通称は発起人らによるものでなく、名付け親は風刺画家のカビュである。カビュは数日後に発行された『シャルリー・エブド』の表紙に「中絶に関するマニフェストのあばずれ女343人を妊娠させたのは誰か?」と題して当時のミシェル・ドブレ国防相を描いた。ドブレは顔を隠すようにして(妊娠させたのは)「フランスのためだったんだ」と言い訳している(カビュの風刺画[7]参照)。実際、女性が自分の身体を自由に扱う権利を求めるこの運動はフランスの女性解放運動(MLF) の一環であり、あらゆるファシストを攻撃したが、ドブレ国防相もこうした標的の一人であり、当時の男性中心主義の典型とされていたため、以後、マニフェスト署名者らは自ら「あばずれ女343人のマニフェスト」という名称を用いるようになった[8]。
マニフェストを起草したのはシモーヌ・ド・ボーヴォワールである。
フランスでは年間100万人の女性が中絶手術を受けている。中絶手術は医療体制の下で行われる場合はさほど困難を伴わないが、実際には、非合法行為であるという理由から非常に危険な状況で行われている。この100万人の女性たちについては誰もが沈黙を守っている。私はここに宣言する、私もその一人であり、中絶手術を受けたと。そして、我々は要求する、避妊手段および中絶手術の自由化を[1][2][5]。
「343人のマニフェスト」には女性解放運動を牽引したボーヴォワール、クリスティーヌ・デルフィ、アンヌ・ゼレンスキー(フランス語版)、イヴェット・ルーディ、フランソワーズ・ドボンヌ、アントワネット・フーク、ジゼル・アリミらのほか、カトリーヌ・ドヌーヴ、マルグリット・デュラス、フランソワーズ・サガン、アレクサンドラ・スチュワルト、モニック・ウィティッグ、ヴィオレット・ルデュック、アリアンヌ・ムヌーシュキン、アニエス・ヴァルダ、ブリジット・フォンテーヌ、フランソワーズ・アルヌール、ステファーヌ・オードラン、ティナ・オーモン、ベルナデット・ラフォン、マルセリーヌ・ロリダン、ジャンヌ・モロー、ビュル・オジエ、マリー=フランス・ピジェ、ミシュリーヌ・プレール、デルフィーヌ・セイリグ、ナディーヌ・トランティニャン、マリナ・ヴラディ、アンヌ・ヴィアゼムスキーらの著名人が名を連ねている(以下「一覧」参照)。