3世紀
後継のカラカラ帝が共同皇帝であった弟のゲタを粛清する。
212年 - カラカラ帝がローマ帝国の全自由民にローマ市民権を与える(アントニヌス勅令)。
214年 - ローマ帝国がオスロエネ王国を滅ぼし、属州オスロエネ(英語版)を設置する。
215年
カラカラ帝によるアレクサンドリア市民虐殺。
陽平関の戦いで曹操が漢中の五斗米道教団に勝利。合肥の戦いで曹操が孫権に勝利。
216年 - ローマ市内のカラカラ浴場が完成する。
217年 - パルティア遠征中のカラカラ帝がカルラエ(ハッラーン)近郊で暗殺され、マクリヌスがローマ皇帝になる。
218年 - アンティオキアの戦いでマクリヌス帝が敗北。
セウェルス家の巻き返しでエメサの神官ヘリオガバルスがローマ皇帝になる。
ヘリオガバルスはシリア・エメサの太陽神をローマのエラガバリウム神殿の主神として招来し黒石バエティルスを配置。
219年 - 樊城の戦いで、曹操・孫権連合軍が勝利し、敗北した劉備軍の関羽が処刑される。
220年代詳細は「220年代」を参照
220年 - 丞相で魏王の曹操が死去。河南省安陽市の西高穴2号墓がその墓とされる。
後漢の献帝が禅譲し、曹操の子曹丕が皇帝となり魏を建てる(漢魏革命 - 265年)。
魏で陳羣の献策による九品官人法が導入される。
220年頃
ゴート族が東西に分裂。
南インドのサータヴァーハナ朝が滅亡。
221年 - 劉備が蜀(蜀漢)を建てる(- 263年)。劉備による孫権への東征の途上で張飛が横死する。
222年
孫権が夷陵の戦いで蜀に勝利し、自立して呉を建てる(- 280年)。三国時代が始まる。
ローマ皇帝ヘリオガバルスが暗殺され、従兄弟のアレクサンデル・セウェルスが皇帝となる。
224年 - ホルミズド平原の戦い(英語版)でペルシアのアルダシール1世がパルティアのアルタバノスに勝利。
226年 - ペルシアのアルダシール1世が「エーラーンの諸王の王(シャーハーン・シャー)」の称号を名乗る(サーサーン朝ペルシアの成立)。
227年 - 蜀の諸葛亮が「出師の表」を奉り、北伐に出陣。
228年 - アレクサンデル帝の近衛長官で法学者でもあったドミティウス・ウルピアヌスが近衛軍団の反乱で暗殺される。
229年 - 大月氏王波調(クシャーナ朝の王ヴァースデーヴァ(英語版))の使者が魏の明帝を訪れる。
波調は「親魏大月氏王」に任じられる。
229年頃 - 呉の孫権のもと交州刺史呂岱により朱応が扶南に派遣される(『扶南異物志』)。
230年代詳細は「230年代」を参照
230年 - ゾロアスター教がサーサーン朝の国教となる。
234年 - 五丈原の戦いで蜀の諸葛亮と魏の司馬懿が交戦。途上で諸葛亮が陣没し司馬懿は軍を退却させる。
235年 - アレクサンデル・セウェルスがマインツ(モゴンティアークム)で暗殺されセウェルス朝が断絶。
マクシミヌス・トラクスがローマ皇帝となり、軍人皇帝時代始まる( - 284年)。
マクシミヌス・トラクスのキリスト教徒迫害で、ローマ司教ポンティアヌスとその対立者ヒッポリュトスがともに殉教する。
238年
遼隧の戦いで遼東の公孫淵が魏の司馬懿に滅ぼされる。
内戦からローマで六皇帝が乱立(六皇帝の年)。
この内戦を鎮圧したゴルディアヌス3世帝が即位し政局は一時的な安定を取り戻す。
チュニジアのエル・ジェムの円形競技場が建設される。
239年
倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の明帝への奉献を願う。
帯方郡の太守である劉夏は使者を魏の洛陽へ送る。
明帝は詔して、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬・銅鏡100枚を授ける(魏の景初三年『三国志』魏書・東夷伝)。
240年代詳細は「240年代」を参照
243年 - 倭王が魏に使者を送り、生ロ・倭錦などを献じる(魏の正始4年、『三国志』魏書・小帝紀、同東夷伝)。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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