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千年紀:1千年紀
世紀:2世紀 - 3世紀 - 4世紀
十年紀:200年代 210年代 220年代 230年代 240年代
250年代 260年代 270年代 280年代 290年代
エデッサの戦い。新興勢力のサーサーン朝ペルシアがローマ帝国に勝利した。画像はナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像で、平伏するローマ皇帝ウァレリアヌスと騎乗のサーサーン朝皇帝シャープール1世が浮き彫りにされている。軍人皇帝時代。ローマ帝国全体の政情が不安定となり、半世紀に20人余の皇帝が乱立される混乱期を迎え外敵の侵攻も勢いを増した。画像は「グランデ・ルドヴィシの石棺(英語版)(ローマ国立博物館アルテンプス宮蔵)」でローマ人とゲルマン人の闘いが彫刻されている。被葬者は軍人皇帝デキウスの息子とされている。
3世紀(さんせいき)は、西暦200年から西暦300年までの100年間を指す世紀。
できごと三国時代。後漢の滅亡とともに各地で群雄が相争う時代に突入した。今日でも人気の高い小説『三国志演義』の舞台として有名である。蜀の劉備とその義兄弟。漢王室の末裔とされる劉備とその同志たちは三国時代の群雄のうちでも知名度が高い。画像は一堂に会した劉備・関羽・張飛を描いた18世紀の画家桜井雪館の絵画(シカゴのフィールド自然史博物館蔵)。竹林の七賢。魏から晋にかけての政治的な混乱から遠ざかり清談をした人々で後世の中国の知識人のモデルともなった。画像は室町時代の日本の絵画。古越州青磁の展開。三国時代から西晋にかけて複雑な意匠を伴う明器としての青磁が江南各地(浙江省・江蘇省)で製造された。画像は上海博物館所蔵の青磁神亭壺(穀倉罐)で壺の上部にある楼閣や人物像に特色がある。箸墓古墳。日本最古級の古墳で倭迹迹日百襲姫命の墓との伝承がある。また邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓に比定する考えもある。2013年に国の史跡に認定された纏向遺跡の範囲に含まれることから近年俄然注目を集めている。ミーラン遺跡。タクラマカン砂漠の南方に位置し、西域南道のオアシス都市として各地の文化が混交した。画像はミーランの仏教寺院遺跡にあった「有翼天使」の壁画でローマ的な顔立ちが特徴的である。パルミラ遺跡の列柱道路。パルミラ女王ゼノビアはローマの混乱に乗じて自立したが、アウレリアヌス帝によって滅ぼされた。ドゥラ・エウロポス遺跡。ローマ帝国東端の要塞都市で257年にサーサーン朝に占領され廃墟となった。画像はこの地にあったユダヤ教のシナゴーグの壁画「モーセと燃える柴」。カラカラ浴場。ローマ市民にとって公衆浴場とは、温浴やサウナを提供するばかりでなく、娯楽施設として生活に憩いをもたらすものでもあった。歴代のローマ皇帝は自らの名を冠した浴場を新設することで人々の支持を得ていた。コロニア・アグリッピネンシス(ケルン)。ローマ帝国内での属州各地の地位の上昇とともにガリアでも独立政権が生まれ(ガリア帝国)、この地がその首都となった。画像は220-230年代に作られた「ディオニソスのモザイク」で、ケルンのローマ・ゲルマン博物館(英語版)に所蔵されている。ヴェネツィアにあるテトラルキア(四分割統治)の像。ディオクレティアヌスによりローマ帝国は正帝2人と副帝2人の計4人で統治されることになった。
日本では弥生時代末期から古墳時代初期にあたる。
樺太南西端と北海道北端でオホーツク文化(初期)が成立する。
ローマ帝国では軍人皇帝時代が始まる。またこの時代の帝国内外の社会的・経済的変動を含めて「3世紀の危機」とも呼ぶ。
200年代詳細は「200年代」を参照
203年
セプティミウス・セウェルス帝がガラマンテス族(英語版)を破り属州アフリカの「リメス・トリポリタヌス(英語版)」を拡大する。
カルタゴにてペルペトゥアとフェリキタス(英語版)が殉教する。
フォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルスの凱旋門が建設される。
204年
遼東の公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置。
曹操が?を占領し、この地を根拠地とする。
207年
白狼山の戦いで、曹操が烏桓を破り、烏桓は弱体化。
208年
曹操が三公制を廃止して丞相と御史大夫を置き、自ら後漢の丞相となる。
赤壁の戦いで、劉備・孫権連合軍が曹操を破り、中国は三分の形勢となる。
210年代詳細は「210年代」を参照
211年 - ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが属州ブリタニアのエボラクム(現ヨーク)で死去。
後継のカラカラ帝が共同皇帝であった弟のゲタを粛清する。