26人のバクー・コミッサール
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「26人のバクー・コミッサールの処刑」(イサーク・ブロツキー、1925年)
コミッサールらはイギリス軍の立ち合いのもとで銃殺されたように描かれている[1]

26人のバクー・コミッサール(26にんのバクー・コミッサール、ロシア語: 26 бакинских комиссаров)とは、バクー・コミューン (Бакинская коммуна) のメンバーであったボリシェヴィキと社会革命党左派(スペイン語版)の党員たちである。

バクーに設立され、ステパン・シャウミャンに率いられたこのコミューンは、1918年6月26日にメンシェヴィキ社会革命党右派に倒されるまで存在した。コミューンの崩壊後、メンバーはバクーを逃れようとしたが、カスピ海艦隊中央委員会独裁政権によって捕らえられ、投獄された。ソ連側の史料によれば、オスマン帝国軍占領下のバクーで、同年9月14日に赤軍の兵士らがコミッサールたちのいる刑務所を襲撃し、彼らを解放した。その後、コミッサールたちはクラスノボツク行きの船に乗り込もうとしたが、ほどなく地元の当局に逮捕され、同月20日にカスピ海横断鉄道沿線で処刑されたという。
目次

1 背景

2 処刑

3 26人のコミッサール

4 影響

4.1 記念碑


5 消えた遺体

6 脚注

6.1 注釈

6.2 出典


背景「ステパン・シャウミャン#バクー・コミューン時代」も参照バクー・コミューン
Бакинская коммуна

1918年 - 1918年


(バクー人民委員会議の旗)

首都バクー
議長
1918年 - 1918年ステパン・シャウミャン

変遷
三月事件で民族主義勢力に勝利し成立1918年4月13日
左派の退陣により消滅1918年7月26日

バクーにおいてアルメニア人ボリシェヴィキステパン・シャウミャンの主導でソビエトが発足したのは、ロシア臨時政府の崩壊から1週間後の1917年11月15日のことである。この時に議長に選出されたのはシャウミャンだったが、それはもっぱら彼の人望によるもので[2]、同地のボリシェヴィキは元来強い勢力ではなかった。同月の憲法制定会議選挙におけるボリシェヴィキの支持率は南カフカース全域で4.3パーセント、バクーに絞っても14パーセントに過ぎず、そのうち79パーセントは兵士層からの得票だった[2]。その後に生まれたバクー・コミューンもまた、1918年4月13日に生まれ7月26日に消えた短命な政体だった。コミューンが権力を握ったのはムスリムとの間の流血の争い(三月事件(英語版))の後のことであるが、その短い統治機関の間にも、コミューンは食料、物資の不足やオスマン帝国の脅威など、数々の問題に直面することとなった。

発足当時のメンバーは、ボリシェヴィキからシャウミャン(議長兼外務委員)、アリョーシャ・ジャパリゼ(執行委員会議長)、ヤーコフ・ゼヴィン(労働委員)、メシャジ・アジズベコフ(地方長官)、ナリマン・ナリマノフ(ロシア語版)(都市経済委員)、イヴァン・フィオレトフ(経済委員)、アルタシェス・カリニャン(法務委員)、ナデジュダ・コレスニコヴァ(教育委員)が、社会革命党左派(スペイン語版)からミル・ガサン・ヴェジロフ(農務委員)とI・スハルツェフ(鉄道・海運・郵政・通信委員)が就任している[3]

6月には石油産業と商船が国有化され、同月18日には豪農の土地が小作農へ分配された[4]8時間労働制が導入されて労働者の賃金は増し[5]、成人向けの学校や人民大学も開かれた[3]。また、ロシアの大部分においてボリシェヴィキが敵対者を冷酷に処刑していたのに対し、バクーのボリシェヴィキはさほど厳格ではなかった。チェーカーがバクーで処刑した人間は2人のみである[注 1]

その一方でコミューンは軍事的手段によって強引に産業の国有化を行い、「革命にルールはない」というプロレタリア独裁の原則によってそれを正当化した。コミューンは4月に都市部における不動産の私的所有の廃止を決定。家という家が接収され、住民は過密状態の、あるいは安全性に欠ける新居への移住を強いられた[7]。コミューンの代表にはムスリムが1人も含まれていなかった反面、バクーの赤軍は7割がアルメニア人で構成されていた[8]。作家のヴィクトル・セルジュ(英語版)は、当時のバクーでの赤軍の状況について次のように述べている[6]。5月から7月にかけて、住民に配給されたのはごく少量のナッツやヒマワリの種だけだった。僅かなトウモロコシでさえもが軍隊のために供出させられた。このような徴発がなされた原因は、当時バクーに駐留していたアルメニア人中心の赤軍小隊が、規律も訓練も行き届かず、プロレタリア革命の理念とも程遠い集団だったことに起因する。彼らは飲んだくれてはムスリムの農民から略奪し、悪評を広めていた。

6月5日にバクーの赤軍は数で勝るオスマン軍を撃退したが、その後オスマンのイスラーム軍(アゼルバイジャン語版)の本拠地であるエリザヴェトポリに無謀な攻撃を行い、3週間でバクーへの撤退を余儀なくされた[9]。7月19日にはツァリーツィンからグリゴリー・ペトロフ率いる騎兵中隊が応援に来たが[10]それも力及ばなかった。メンシェヴィキ社会革命党右派、そしてアルメニア人のダシュナク党の勢力はバクーにペルシャ戦線のイギリス軍指揮官であるライオネル・ダンスターヴィル(英語版)将軍を招き、オスマンから都市を防衛してくれるよう交渉を始めた。ボリシェヴィキ、社会革命党左派とダシュナク党の一部はこれに反対したが、7月25日の議決では賛成259票、反対236票と僅差で敗れ[11][12]、翌日にボリシェヴィキらはコミューンを辞した。


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