2012年カタルーニャ独立デモ
グラシア通り付近でのデモ行進の様子
時2012年9月11日
場所 スペイン
カタルーニャ州バルセロナ
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度23分07秒 東経2度10分36秒 / 北緯41.3854度 東経2.1767度 / 41.3854; 2.1767
2012年カタルーニャ独立デモは、カタルーニャ国民の日である2012年9月11日にスペイン・カタルーニャ州バルセロナの中心部で行われたデモ行進である[4][5][6]。参加者たちは「カタルーニャ、新しいヨーロッパ国家」 (カタルーニャ語: Catalunya, nou estat d'Europa)というスローガンの下、主権国家としてのカタルーニャの独立と統合を要求した[7][8][9]。
民間団体のカタルーニャ国民会議(ANC) によって組織され[10]、独立に向けた自治体連合(スペイン語版)がカタルーニャ国民会議と共同で主導した。2012年6月30日にリェイダで始まった一連の「独立に向けた行進」(カタルーニャ語: Marxa cap a la Independencia)として知られる運動の一部であり、最後を飾ったもっとも顕著な事例である[11][12]。2010年カタルーニャ自治抗議などを上回る人数が参加し[13][14]、多くの新聞や他の報道機関は「歴史的な」デモであると表現し、スペインの民主化(スペイン語版)後にカタルーニャ地方で行われた過去最大の抗議行進であるとした[15][16][17][18][19][20]。 カタルーニャ君主国は13世紀に自治制度を確立し、13・14世紀には南ヨーロッパの大国として地中海で覇権を握った。18世紀初頭のスペイン継承戦争では、フランスやスペインを中心とした軍とハプスブルク君主国を中心とした同盟軍が交戦し、カタルーニャ軍はハプスブルク側に付いたが、1714年のバルセロナ包囲戦でスペイン軍に敗れて陥落した[21]。カタルーニャ地方は独立を実質的に失い、新たに成立したスペイン・ボルボン朝の下でカタルーニャ語の使用が初めて禁じられた[21]。1931年には第二共和政で再び自治権を得たが、スペイン内戦後の1930年代後半からのフランコ体制下のスペインでは、文化や言論がいっそう弾圧され、カタルーニャ語名の使用すらも禁じられた。1975年にフランシスコ・フランコが死去してスペインが民主化 2000年には国民党(PP)がスペイン議会総選挙で勝利をおさめ、ホセ・マリア・アスナール政権とカタルーニャ州政府の関係は険悪なものとなった上に[22]、2000年代後半のバブル経済崩壊で政治基盤が弱体化し、カタルーニャ州は大きな公的債務を抱えるようになった。カタルーニャ州はスペイン有数の経済力を持つ自治州であるが、2008年のリーマン・ショック後には州の財政が悪化。2010年前半にはスペインを含むヨーロッパ諸国で欧州債務危機が起こり、中央政府は州政府に財政赤字削減策の遂行を要求した。カタルーニャ州が中央政府に支払う税金が州に十分に還元されていないとする不満が高まり、スペインからの独立を求める独立支持派が台頭した。 2010年7月10日にはカタルーニャ州バルセロナの中心部で、カタルーニャの自治の制限や、2006年のカタルーニャ自治憲章
背景
カタルーニャの自治権喪失と回復
2010年のデモ行進と2011年の政権交代