2011年エジプト騒乱
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29年間続く非常事態宣言の中で野党関係者が政府によって恣意的に弾圧されたこともあり、人権状況の改善も訴えられてきた[11]

またホスニー・ムバーラクが2011年秋の大統領選挙で6選を狙っているという観測や[9]、後継者に次男のガマルが目されていたことも批判の対象となっていた[14] ほか、縁故主義(ネポティズム)も問題視されてきた[10]
直前の状況

2010年暮れに始まったチュニジア国内の騒乱は、23年間の長期政権を維持してきたベン=アリー大統領が2011年1月14日に国外に脱出して政権が崩壊するに至った。インターネット上ではジャスミン革命とも呼ばれたこの事件は、長期独裁政権が民衆によって倒されるという、アラブ諸国ではそれまでほとんど見られない結末に至った。エジプト政府は「チュニジア国民の選択を尊重する」と表明したが[15]、チュニジア同様にエジプトでもホスニー・ムバーラク大統領が強権的な政権を29年以上にわたり維持し、また貧富の差が激しいことも共通していたことから、当局は騒乱の波及、即ちチュニジアからの「革命の輸出」を懸念していた[11]。後述するように焼身自殺をきっかけにチュニジア政変が起きた事にならったとみられる焼身自殺が相次いだこともあり、政府は食料品への補助金を増やすなど飛び火回避に躍起となった[16]。その一方で、エジプトのマスコミでは社会構造や政治に対する国民の意識がチュニジアとは違うため、騒乱の波及はないとする論調もあった[17]

しかし、変革のうねりがエジプトに飛び火する下地になる事件は存在していた。2010年6月6日アレクサンドリア出身のプログラマであるハーリド・サイードが死亡した事件である。後にデモに参加した仲間達の主張によれば、彼は薬物犯罪担当警察官による麻薬の密売を告発し、インターネットを通じて警察不正を追及したところ、警察の監視下におかれ最終的に撲殺されたという。告発後に彼がネットカフェにいるところを警察官に捕えられ、外に引きずり出されたうえで身体が膨れ上がり歯が欠けるほどの暴行を受けていたにもかかわらず、当局は「所持した麻薬を隠すために袋ごと飲みこんだ際に窒息して死亡した」と発表した。この件が後にGoogle幹部のワエル・ゴニムによって公表されたため、2011年1月25日に発生したデモは後述の件も合わさり大規模なものに発展することになる[18]

1月14日には首都カイロにあるチュニジア大使館の前で反政府デモが発生した[15]。ジャスミン革命の発端となった焼身自殺に続く事件が北アフリカを中心に続発する中で、エジプトでも1月17日から18日にかけてカイロやアレクサンドリアなどで合わせて3人が焼身自殺を図り、死亡者も出た[19][20][21]1月21日には低賃金にあえいでいた男性が焼身自殺を図り大やけどを負うなど、類似した事件が後を絶たなかった[16]。そもそもイスラム教では自殺が特に厳格に禁じられている中にあってもなお自殺を選択する例が続発し、それゆえに一連の抗議行動はエジプト国民に大きな同情と政権への怒りを呼び起こした[16]
大規模デモ発生から政権崩壊まで

エジプトにおいて多人数が集まっての集会、即ちデモは禁止されていたが、ネットワークを介した呼びかけにより「警察の日」ならびに金曜礼拝に前後して大規模なデモが繰り返され、ムバーラク退陣を要求する声があがった。これに対しムバーラクは内閣刷新、改革の実施、また次の選挙には出馬をしないことを表明する一方で任期一杯の9月まで大統領職に留まる意思を示した。だが、デモは収まらず、軍は中立を表明し、諸外国からも退陣を要求されるに至り、ムバーラクは追いつめられ、遂に大統領職を辞した。
デモの呼びかけ

若者を中心とする高い失業率や、穀物高騰による食糧品値上げで貧困層の経済状況が悪化し、またチュニジアの政変が伝えられるなか、民主化運動を支持する青年組織「4月6日運動[22] や野党勢力が1月25日に大規模な反政府デモを計画。複数の団体がFacebookを通じて参加を呼びかけ[23]1月22日の時点で5万人が参加を表明[24]、最終的には8万7000人に達した[25]。これに対し、政府はデモ抑止に動いた[26]。また、ジャスミン革命の原動力の一つになったとされているFacebookやTwitterといったサービスについて、大規模デモ発生に前後してエジプト国内からのアクセス遮断されたほか、携帯電話の一部も使用不能になった[27][28]。後にTwitterは対抗サービスを開始している(後述)。Facebookにおいて最初に1月25日の反政府デモを呼びかけるページを作ったのはGoogle幹部のワエル・ゴニムであったとされるが、デモ2日後の1月27日に消息を絶ち、2月6日にエジプト政府当局が解放すると発表した[29]

なお、反ムバーラク派は「警察の日」であった1月25日をデモの日に選んだ。警察の日にデモが定められた理由は、警察がハリド・サイードを撲殺したとされたことからである。そのため、多くのデモ参加者が「私達は皆ハリド・ザイードだ」と気勢を上げ、また彼の写真を掲げて行進した[18]
1月25日大規模デモ1月25日、展開する治安部隊。1月25日と書かれた靴を投げつけられるムバーラクが描かれた横断幕。アラブ世界では靴を投げつける行為は最大の侮辱の意思表示である。

1月25日、カイロやアレクサンドリア、スエズなどでデモが実行され、少なくとも約1万5000人が参加したとされている[30][31]。ムバーラク退陣を求める声が上がり、ムバーラクのポスターが破られ、燃やされた[32][33]。その怒りの矛先はアメリカ合衆国イスラエルにも向けられた[34]

これらのデモの動きに対して治安当局は実力による鎮圧を図り、デモ隊を強制排除するため催涙弾を使用し[23][25][30][33][35] た。


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