2011年イエメン騒乱
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また、大統領支持だった主要部族のうちハーシド部族連合とバーキル部族連合が反政府派に加わった。
3月の動き

3月1日からデモが拡大。アデンとの連帯を示すためという。北部アムランでデモ隊に軍が発砲、2人が死亡。北部セムラでもデモ隊に軍が発砲、4人が死亡し、7人が負傷。また首都サナアで数万人規模のデモが発生した。18日にはサナア大学の校内にいるデモ隊と武装した政府支持者が衝突。これに対して、建物の屋上や家内から治安部隊の狙撃手が実弾を用いてデモ隊に発砲。52人が死亡、100人以上が負傷した。犠牲者はデモ発生以来最大規模となった。多くが頭部や首を撃たれていたという。この事態を受けて、サーレハ大統領は全土に非常事態を宣言した。

3月19日にはサーレハの出身部族であるハーシド部族連合のサーディク・アル=アフマル族長が大統領の退陣を求める声明を発表し、反政府デモ隊を正式に支持した。また、人権相や観光相、国連大使、シリア、エジプト、サウジアラビア、レバノン、中国の各国駐在大使、アデン県知事、国民全体会議幹部も18日の事態に抗議して20日に辞任した。また、イエメン軍内部でも大将2人や将校60人、内務省職員50人がデモへの支持を表明。サーレハの異母弟であるアリー・ムフスィン・アル=アフマル陸軍第1装甲師団長がデモ隊を支持するとの声明をアルジャジーラで発表した。一方、アリー国防相は「軍は大統領を支持している」と語り、大統領宮殿や政府関連施設にサーレハの長男アフマドが司令官を務める共和国防衛隊が配備された。
年内退陣の提案首都サナアにおける反政府デモ、2011年4月4日

一向に収まらぬ気配のない反政府デモに対処するため、サーレハは21日に年内退陣の提案を側近などに伝え、22日にスポークスマンにより発表[34]。翌23日には野党や軍司令官らとの会談において、サーレハは年内に大統領選挙を実施すると表明したが、野党側が求める即時退陣は改めて拒否した[35]。一方で22日に非常事態法が成立。1ヶ月限定で憲法の停止や司法手続きを経ることなく逮捕できるとした、デモ活動を封じ込めるための内容となっている[36]

湾岸協力会議(GCC)はサーレハの1ヶ月以内の退陣や訴追免除といった内容を含む収拾案を示し、サーレハ自身も4月23日の時点ではいったん受け入れを表明した[37]が、それでも反政府デモの勢いが収まることはなかった[38]。アメリカを始めとする諸外国はサーレハの退陣表明を歓迎したが[39]、24日には早くも政権の早期移譲を拒否[40]。30日には直前で調停案への署名を拒否した[41]

GCCはその後も調停案を軸とした交渉を続けたが、5月上旬には反政府勢力側も調停案を拒否した[42]。5月18日にはサーレハが再び調停案受け入れを表明したとも伝えられたが[43]、翌19日には再び拒否した[44]。5月21日には野党勢力が調停案を受け入れたものの[45]サーレハ側は受け入れ拒否の姿勢を崩さず、GCCは仲介を断念するに至った[46]

周辺諸国による調停が失敗したことにより、5月下旬より治安部隊と反政府勢力との間の衝突が激化[47]。5月25日から26日にかけて50人以上が死亡、政府と敵対する部族の指導者に逮捕状が出されるなど、イエメンは内戦状態突入への危機に陥った[48][49]。5月下旬に行われた第37回主要国首脳会議では首脳宣言でサーレハの退陣と、平和的な政権移譲を求めた[50]。5月28日には治安部隊と反政府勢力の部族との間で停戦合意が行われ、つかの間の戦闘停止が実現した[51]が、5月29日に治安部隊がデモ隊に発砲し20人以上が死亡するなど混乱は収まらなかった[52][53]。また武装したアルカーイダ系の組織が治安部隊と衝突し[47]、これに対処するため政府軍は5月30日にアルカーイダに占領された地域に空爆を行った[54]。その後も衝突による犠牲者の数は増え続けた。
負傷とサウジでの治療

6月3日、反政府の部族の幹部が政府軍によって自宅を砲撃される[55]。その後、大統領宮殿の敷地内にあるモスクが反政府勢力により砲撃され、正副の首相や国会議長、また大統領自身も負傷した[56][57]。大統領には死亡説も流れたが、同日中に国営テレビに声だけ登場し無事をアピールすると共に、反政府の部族への攻撃を徹底するよう指示した[58]。翌6月4日には同じく負傷したムジャッワル首相と共に治療のためサウジアラビアへの病院へ搬送され、副大統領のアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーが大統領代行に就任した[59]。こうした政治空白を突いてアルカーイダが実権を握らないよう、アメリカが反政府組織に対して攻撃を強化しているとも報じられた[60]

6月14日にはサーレハが滞在するサウジアラビアのアブドゥッラー国王と電話で会談し、順調に回復していると伝える一方で[61]6月17日にはサウジアラビアの政府当局者が、サーレハがイエメンに帰国しないとの見通しを語ったと報じられ、イエメン外務省幹部がこれを否定するという事態になった[62]。7月7日には入院中の姿がイエメン国営放送で流され、約1ヶ月ぶりに公の場所に姿を見せた。その中の演説で8回の手術を受けたことを明らかにし[63]、反政府勢力との対話を呼びかけたものの自身の退陣には言及しなかった[64]。サーレハとムジャッワルは8月6日に退院。ムジャッワルは8月23日に帰国し[65]、サーレハは9月23日に帰国した[66]。これにより再びイエメン国内で緊張が高まり、反政府デモにおいて軍による攻撃が行われ40人以上が死亡した[67][68]。サーレハはサウジ滞在中の8月29日に大統領選挙を近いうちに実施する意向を表明していた[69]が、帰国後には改めて辞任を拒否した[68]

ムハンマド・ナーセル・アリー国防大臣を狙った地雷テロが8月30日に[70]、また自爆テロが9月28日に発生し[71]、負傷者が出たがアリ国防相自身はいずれも難を逃れている。
大統領権限委譲

サーレハ退陣要求デモが続く中、2011年11月23日にサーレハはサウジアラビアのリヤドを訪問し、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー副大統領らへの30日以内の権限移譲などが盛り込まれた湾岸協力会議(GCC)や欧米による調停案に署名した[72][73]。これによりサーレハ政権は12月23日をもって終了し(ただし名目上の大統領職にはとどまる[74])、その後60日以内に大統領選挙が行われることが確定した。この背景には、長引く紛争による大統領派の弱体化が指摘されている[73]。アメリカや日本、EUなどはこれを支持する声明を発表したが[75][76][77]、一方でサーレハは退陣の見返りとして訴追免除と身の安全が保障されることとなり、これに反政府派が反発しデモは収まらなかった[78]。後継政権の首相には元外務大臣で野党指導者のムハンマド・サーレム・バーシンドワが指名され、12月7日に挙国一致内閣の閣僚が発表された[79]


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