2008年ジンバブエ大統領選挙
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2008年ジンバブエ大統領選挙
Zimbabwean presidential election, 2008

2002年 ←
2008年3月29日(第1回)
2008年6月27日(第2回)
→ 2013年


 
候補者ロバート・ムガベモーガン・
ツァンギライ

政党ジンバブエ・アフリカ民族同盟=愛国戦線民主変革運動
得票数1,079,7301,195,562
得票率43.2%47.9%
得票数(第2回)2,150,269233,000
得票率(第2回)85.5%9.3%

選挙前大統領

ロバート・ムガベ
ZANU-PF選出大統領

ロバート・ムガベ
ZANU-PF

2008年ジンバブエ大統領選挙(2008ねんジンバブエだいとうりょうせんきょ、英語: Zimbabwean presidential election, 2008)は、2008年ジンバブエ共和国で行われた大統領を選出する選挙である。
概要

選挙は、ロバート・ムガベ大統領の進退を問うものとして注目された。ムガベは、1980年イギリスからの独立以来、独立の「英雄」として長年権力の座に就き、強権的な政治体制を構築した。その一方で、2002年に白人大農場の土地強制収用を行い、大幅な生産減を招いてインフレーションが進み、2008年1月にはインフレ率が前年同月比で10万%を記録するなど、経済を崩壊させた。

選挙には、現職で5選を目指すロバート・ムガベ大統領に対し、最大野党の民主変革運動(MDC)のモーガン・ツァンギライ議長、シンバ・マコニ元財務相、ラントン・トウンガナが挑んだ。

3月25日に投票が行われ、ツァンギライが最多得票を獲得したものの、過半数に達しなかったため、6月28日に決選投票が行われることになった。しかし、決選投票までの間に野党支持者に対する脅迫や暴行が横行し、ツァンギライは選挙からの撤退を表明。投票は予定通り行われ、ムガベが再選を果たした。

これに対し、欧米諸国からは非難が相次ぎ、ジンバブエ国内は混乱が続いている。
経過

2007年3月30日与党ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線(ZANU-PF)の党中央委員会が非公開で開かれ、ロバート・ムガベが大統領選挙の候補に選出された[1]

2008年2月5日2002年まで財務相を担当していたシンバ・マコニが「国の再生」を訴えて出馬を宣言した[2]。これを受けて、所属政党のZANU-PFはマコニを除名し、無所属で立候補することとなった。一方で、ZANU-PFの一部幹部やMDCの分派がマコニの支持を表明するなど、一定の支持を取り付けた。

2月11日には、2002年の大統領選挙にも出馬したMDC議長のモーガン・ツァンギライが出馬を表明。2月15日、選挙管理委員会により、ムガベ、マコニ、ツァンギライの3人が登録された。また、ラントン・トウンガナが4人目の候補者として登録された。

選挙監視団については、南部アフリカ開発共同体(SADC)、アフリカ連合(AU)、イランベネズエラロシアなどから47団体の派遣を受け入れたものの、EU諸国やアメリカ日本などからの派遣は拒否した。また、大半の欧米メディアは入国を認められなかった。
第1回投票

投票は3月29日に行われ、即日開票された。また、同時に上院・下院選挙と地方議会選挙の投票も行われた。

野党・民主変革運動(MDC)は3月30日に独自集計の結果をもとに、勝利を宣言した。4月2日には、ツァンギライが50.3%、ムガベ43.8%を獲得したとして改めて勝利宣言した。しかし、即日開票にもかかわらず選管からの投票結果の発表はなかなか出ず、4月4日には与党ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線(ZANU-PF)の幹部会議にて決選投票に臨む方針を示した[3]。さらに、ZANU-PFは選挙結果が出ないうちに、票の再集計を指示[4]。MDC側はZANU-PFが票を不正操作していると指摘した。

投票結果の発表が遅れる間に、与党支持者や退役軍人などによる野党支持者に対する暴力行為が横行。政権もこれに大きく関与したとされ、ムガベの票を過少集計したとして選挙管理委員5人が逮捕された。また、4月3日夜、許可なく取材活動を行ったとして、「ニューヨーク・タイムズ」の記者とイギリスのフリージャーナリストが警察に拘束された[5]

MDCは投票結果の即時公表を求めて裁判所に提訴したが、4月14日、ジンバブエの高等裁判所は訴えを退けた。この判決を受けてMDCはゼネストを行ったが、不調に終わり、16日に警察はゼネストを計画した野党支持者56人を「公務執行妨害」で拘束した[6]

4月25日には、警察当局がMDCの本部と独立系選挙監視団のジンバブエ選挙サポートネットワーク(ZESN)の事務所を捜索した。この捜索では、MDC支持者の数十人が拘束され、ZESNでは書類が押収されたという[7]

一方、下院選挙(定数210)ではZANU-PFは97議席で過半数を割り、MDCが主流派・分派とあわせて109議席を獲得した。ZANU-PFは、野党の23議席について再集計を要求したが、集計結果は変わらず、独立以来初の与党敗北が確定した。上院では、与野党がそれぞれ30議席を獲得した。

選挙結果は5月2日に発表され、ツァンギライが全得票の47.9%、ムガベは43.2%を獲得した。この結果、過半数の票を獲得した候補者がいなかったとして、選挙規定により決選投票が行われることとなった。選挙規定では決選投票は、1回目の投票から21日以内に行われることになっているが、5月17日、選挙管理委員会は6月28日に決選投票を実施すると発表した。
野党弾圧と候補者撤退のなかでの決選投票

MDCは決選投票に臨む姿勢を示し、マコニ側がツァンギライの支持を表明した。

ツァンギライはたびたび警察に拘束を受けるなど選挙活動を妨害され、6月12日にはMDCのテンダイ・ビティ事務局長が国家転覆罪などの罪で逮捕された。また、MDC党員のハラレ市長の妻が殺害されるなど、MDC支持者の殺害も相次いだ[8]。また、6月5日には、3月の大統領選に絡む暴力事件を調査中の英米の外交官9人が拘束されている。

ムガベは6月20日ブラワヨで演説を行った際、「わたしを解任できるのは神のみだ」と言い放った[9]

6月22日、ツァンギライは選挙からの撤退を表明し、在ハラレ・オランダ大使館に保護された。6月23日には、警察によってMDC本部が強制捜査を受け、一連の暴力事件から避難してきた人々など60数人が拘束された[10]6月25日、ツァンギライは「ガーディアン」に寄稿し、国際社会に対して平和維持部隊の投入を要請した。しかし、ZANU-PFはツァンギライの撤退は無効として、投票を予定通り行うことを表明した。

投票日の延期を求める国際的な要請のなか、投票は予定通り6月28日に行われた。

ZANU-PFは、政府系紙「ヘラルド」にて「空前の高投票率」と発表したが、AUの選挙監視団は「投票率は低かった」と語った。実際の投票率は42.37%だった。選挙結果は、ロバート・ムガベが得票数の85.5%を獲得して勝利したが、撤退を表明していたツァンギライへの投票や白紙の投票も一定あった。ムガベは、6月29日に就任宣誓式を行った。
難航する政権樹立

ムガベ側はMDCと対話する構えを見せたが、MDCは対話を拒否。南アフリカのタボ・ムベキ大統領が積極的に仲介に乗り出し、7月10日には南アフリカのプレトリアで与野党の協議が行われた。7月21日には、暴動の収拾を図るための与野党協力に向けた覚書がハラレで調印され、ムガベとツァンギライが握手を交わした。連立政権樹立に向けた調整は、両者に加えてMDC分派のアーサー・ムタンバラも参加して行われ、一時中断するなど紆余曲折があったものの、9月15日に与野党連立に合意する文書に調印した。ムガベは大統領に留まるが、ツァンギライが首相に就任し、閣僚は与党が15、野党が16となった。

しかし、ムガベは連立政権の主要ポストをZANU-PFの議員を指名。ツァンギライはこれに対して連立撤回を示唆し、連立は再び暗礁に乗り上げた。10月20日から、アフリカ諸国の首脳らによる連立に向けた特別会議がスワジランドの首都・ムババーネで開かれたが、ツァンギライは緊急渡航書類が19日午後に到着したことに抗議し、欠席した。11月20日に開かれた南部アフリカ開発共同体の緊急会合では、内相を分割するなどの妥協案が提案されたが、ツァンギライ側は拒否した。


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