2003年の日本グランプリレース詳細
2003年のロードレース世界選手権 全16戦中第1戦
決勝日2003年4月6日
開催地鈴鹿
開催コース常設サーキット
5.821km
MotoGP
ポールポジションファステストラップ
バレンティーノ・ロッシ バレンティーノ・ロッシ
2:06.8382:04.970
表彰台
1. バレンティーノ・ロッシ
2. マックス・ビアッジ3. ロリス・カピロッシ
250 cc
ポールポジションファステストラップ
青山博一 青山博一
2:17.9302:09.839
表彰台
1. マヌエル・ポジャーリ
2. 青山博一3. 高橋裕紀
125 cc
ポールポジションファステストラップ
アレックス・デ・アンジェリス ステファノ・ペルジーニ
2:15.4172:14.282
表彰台
1. ステファノ・ペルジーニ
2. ミルコ・ジャンサンティ
2003年の日本グランプリは、ロードレース世界選手権の2003年シーズン開幕戦として、4月4日から6日まで三重県の鈴鹿サーキットで開催された。この年のレースは加藤大治郎の事故死という悲劇に見舞われた。翌年以降、鈴鹿はグランプリカレンダーから外れ、日本GPはツインリンクもてぎ(この年までパシフィックGPとして開催)でおこなわれるようになった。 125ccクラス決勝では、ステファノ・ペルジーニがスティーブ・イェンクナー、ミルコ・ジャンサンティ 250ccクラス予選では、土曜日のセッションが雨でタイム更新が不可能だったこともあり、地元ワイルドカード勢が速さを見せることとなった。6度目のGP出場となったハルクプロの青山博一(ホンダ)がポールポジションを獲得、2番グリッドにはSP忠男レーシングの中須賀克行(ヤマハ)が続いた。グリッド2列目からは、クラス唯一のフル参戦日本人ライダーとなった松戸直樹(ヤマハ・クルツ)が5番手、ダイドーMiuレーシングの高橋裕紀(ホンダ)が7番手からのスタートとなった[3]。 日曜日の決勝はマヌエル・ポジャーリが23番手グリッドから猛烈な追い上げを見せ、250ccクラスデビューレースで優勝を成し遂げた。2位には高橋裕紀をファイナルラップのシケインでオーバーテイクした青山博一が入り、自身初の表彰台を獲得した。3位の高橋は前年のパシフィックGPに続いて2度目の表彰台となった[4]。 2年目のシーズン開幕戦となったMotoGPクラスの予選では、ディフェンディングチャンピオンのバレンティーノ・ロッシ(レプソル・ホンダ)がポールポジションを獲得、2番手にマックス・ビアッジ(キャメル・ホンダ・ポンス)が続いた。地元勢最上位は3番グリッドの宇川徹(キャメル・ホンダ・ポンス)、5番手にルーキーの玉田誠(プラマック・ホンダ)、10番手に中野真矢(ダンティーン・ヤマハ)、11番手に加藤大治郎(テレフォニカ・モビスター・ホンダ)が続いた[5]。このシーズンヤマハ・YZR-M1の開発ライダーを務めることになった阿部典史は当初ワイルドカード枠での出場予定だったが、マルコ・メランドリの負傷代役として急きょワークスのフォルツナ・ヤマハからエントリー、14番グリッドからのスタートとなった[6]。 決勝レースでは、このシーズンから参戦を始めたドゥカティを駆るロリス・カピロッシが15番グリッドからロケットスタートを決めてトップに躍り出た。しかし5周目にはロッシがトップに立つとそのままリードを広げ、独走で開幕戦を制した。2位にはビアッジ、3位のカピロッシはドゥカティのMotoGP初レースでの表彰台獲得を成し遂げた。地元勢トップは9位の中野真矢だった[7]。 11番グリッドから好スタートを決めた加藤大治郎は6位にまでポジションを上げ、4位争いの集団バトルに加わっていた。しかし3周目の130Rの立ち上がりで、マシンのコントロールを失う。体勢を立て直そうとしたが、マシンは「ウィーブモード」と呼ばれる激しい振動状態に陥ってしまう。操縦不能のまま左方向にコースアウトし、約150km/hでタイヤバリアに接触。約16.5度という浅い角度だったためほとんど速度は落ちず、タイヤバリアが途切れた約120cmの隙間の先にあったスポンジバリアに約140km/hで頭から突っ込んでしまう。このときに頸椎を損傷した大治郎の意識は戻らないまま、4月20日午前0時42分、収容先の三重県立総合医療センターにおいて脳幹梗塞により息を引き取った[8][9]。 この事故発生を受けて、ライダー達からはコース外のセーフティーエリアの狭さを指摘され、サーキットの危険性を改善するよう要求が出された。サーキットの運営母体であるホンダは、翌年までにコース改修することが困難であるとして、9月19日に鈴鹿での開催中止を発表した。
概要
125ccクラス
250ccクラス
MotoGPクラス
加藤大治郎の死日曜朝のフリー走行での大治郎