2003年のロードレース世界選手権
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2003年の
FIMロードレース世界選手権
前年:2002翌年:2004
2003年のロードレース世界選手権

2003年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第55回大会である。
シーズンの概要

ディフェンディングチャンピオンのバレンティーノ・ロッシがシーズン9勝を挙げ、さらに全戦で表彰台に登るという前年以上の圧倒的な強さを見せ、500cc時代から通算3年連続となるMotoGPクラスのタイトルを獲得した。中でも第15戦オーストラリアGPはこの年のロッシの強さを象徴している。イエローフラッグ区間の追い越しにより10秒加算のペナルティを受けたロッシは、2位のカピロッシに10秒以上の大差をつけてゴールし、ペナルティによるハンディをものともせずに圧勝したのである[1]

そのロッシは、これ以上ホンダで戦い続けることにモチベーションを見出せなくなっていた。ロッシとの契約が切れるこの年、HRCはシーズン当初から契約更新のための交渉を続けていたが、ロッシはついに首を縦に振ることなく、シーズン終了後に2003年限りでホンダとの契約を終了することを発表した[2]。ロッシは程なくヤマハと契約し、チーフ・エンジニアジェレミー・バージェスをホンダから引き抜いた。

この年の開幕戦鈴鹿では、加藤大治郎が死亡するという痛ましい事故が起きた。加藤はカシオトライアングル(シケイン)に差し掛かったところでマシンのコントロールを失い、高速でスポンジバリヤに激突した。コースから病院へ緊急搬送された時点ではまだ脈があったが、意識が戻らぬまま2週間後、帰らぬ人となってしまった。事故発生後からコース上で緊急治療が続けられている間、赤旗による中断がされずにレースが継続されたことに関して後に批判が巻き起こり[3]、鈴鹿はこの年限りでカレンダーから外された。加藤のチームメイトのセテ・ジベルナウは加藤が使っていたファクトリー仕様のRC211Vを受け継ぎ、直後の第2戦南アフリカGPで勝利を加藤に捧げた。

この年MotoGPクラスにデビューしたのは、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞したニッキー・ヘイデンをはじめ、トロイ・ベイリスマルコ・メランドリコーリン・エドワーズらである。また新たなコンストラクターとして、スーパーバイクで数多くの成功を収めていたドゥカティデスモセディチGP3でグランプリ最高峰クラスに復帰したのもこの年だった。ドゥカティはすぐに速さを発揮し、ヤマハを抑えてコンストラクターズランキングでホンダに次ぐ2位となった。一方のヤマハファクトリーは、コンストラクターズ3位となり、GP最高峰クラス初挑戦の73年以来初となる未勝利でシーズンを終えることとなった。これがきっかけとなり、ヤマハ内部で体制の大幅見直しとマシン開発の路線変更によるヤマハハンドリングともコーナリングマシンとも呼ばれる車体とエンジン特性を得ることになり、2004年のロッシ加入とともなってウェインレイニーやエディローソンがいた当時の「勝てるヤマハ」を取り戻して行く転換点となった。

250ccクラスでは125ccクラスからステップアップしたアプリリアマヌエル・ポジャーリが、シーズンを通してリタイヤなしという安定度を見せたホンダのロベルト・ロルフォとのデッドヒートを制し、250ccクラスデビューイヤーにチャンピオンを獲得した。

125ccクラスは、シーズンを通して連勝したライダーが一人もいないという大乱戦となったが、そんな中でも5勝を挙げたダニ・ペドロサがタイトルを獲得した。ところがペドロサはタイトルを決めた後の第15戦オーストラリアGPのフリー走行でクラッシュし、両足を骨折するという不運にみまわれてしまった。
グランプリ

Rd.決勝日GPサーキット125ccクラス勝者250ccクラス勝者MotoGPクラス勝者結果
14月6日
日本GP鈴鹿 ステファノ・ペルジーニ マヌエル・ポジャーリ バレンティーノ・ロッシ詳細
24月27日 南アフリカGPウェルコム ダニ・ペドロサ マヌエル・ポジャーリ セテ・ジベルナウ詳細
35月11日 スペインGPヘレス ルーチョ・チェッキネロ トニ・エリアス バレンティーノ・ロッシ詳細


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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