2月内乱
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11月10日には戒厳令が敷かれて死刑制度が復活した。また11月12日の社会民主党による共和国成立記念日式典も禁止された。

ドルフースは当初社会民主党を徐々に禁止するつもりであったが、1934年1月18日にイタリアのムッソリーニ首相が外務次官を派遣して圧力をかけた。2月9日ウィーンにいた共和国保護同盟の幹部が逮捕され、2月11日にはドルフースも社会民主党への最終措置を執る決断を下した[8]ウィーンの大型公営集合住宅カール・マルクス・ホーフ。2月内乱の衝突の舞台となり、軍による砲撃を受けた

2月12日、警察がリンツにある社会民主党の所有資産で、共和国保護同盟のリンツ支部だったホテル・シッフを家宅捜索した。リンツにおける共和国保護同盟の指揮官リヒャルト・ベルナシェックはこの捜索に対して武力で抵抗した。攻撃に驚いた警察は連邦軍に協力を依頼し、衝突が始まった。社会民主党の指導者ドイッチュは、この抵抗が党の指導部の許可を得ていないものだったとしている。しかし一度発生した蜂起を見捨てることは出来ず、全土におけるゼネストを指令した。しかし指令はほとんど届かず、電車の一部が停止したのみであり、その他の鉄道・郵便などは業務を続けた[8]

これ以降オーストリアの各地で同様の衝突が発生した。ウィーンではオッタクリング(de:Ottakring)の労働者ハイムが激戦地となり、13日の早朝から14日まで近隣で戦った。またジンメリングではハイリゲンシュタットデープリングにある巨大な集合住宅カール・マルクス・ホーフ(en:Karl-Marx-Hof)が12日から軍による砲火を浴び、何千人もの民間人の命が危険に晒され、多くの住宅区画が破壊された末[9]、15日の昼に降伏した。これらの拠点は社会主義運動の象徴であり拠り所でもあったゲマインデバウ(en:Gemeindebau、大型の公営集合住宅の一種)であった。ザンクトマルクスの中央家畜市場は13日に降伏した。ドゥロリーツドルフでは13日に激しい戦闘が起きたが、国防軍や郷土防衛隊が大量動員されたため、残存した共和国保護同盟の兵員はチェコスロバキアに亡命することになった。

また同様に地方都市、例えばシュタイアーザンクト・ペルテン、ヴァイツ、エッゲンベルク、カッフェンベルク、ブルック・アン・デア・ムア、グラーツ、エーベンゼーそしてヴェルグルでも衝突が発生した。シュタイアーマルク州の都市、特にブルック・アン・デア・ムア、そしてユーデンブルクでは2月14日または2月15日まで、深刻な戦闘が続いていた。その後、軍隊と戦っているか、或いはそれから逃げている社会主義者の小さなグループだけが残った。1934年2月16日までには、オーストリア内戦は収束した。
内戦の結果内戦中のリンツで1934年2月12日に死亡した警察官の記念碑

民兵や治安部隊、民間人を含めて数百人が武力衝突で死亡し、1000人以上が負傷した。当局は戒厳令に基き、共和国保護同盟や社会民主党の指導者を即決裁判にかけ、コロマン・ヴァリッシュ(de:Koloman Wallisch)を含む9人を処刑した。このほかに1500人が逮捕された。社会主義の指導的立場にあった政治家オットー・バウアー外務大臣やドイッチュも亡命を余儀なくされた[10]

1934年2月に起きた一連の出来事は、政府によって、社会民主党やそれと連携していた労働組合を完全に禁止する口実として使われた。5月になると、保守派は民主的な憲法ファシスト・イタリアベニート・ムッソリーニの方針を手本としたコーポラティズム的な憲法へと改正した。この権威主義的な独裁体制を名づけるべく、社会主義者はオーストロファシズムという用語を発明した。ただし、オーストリアの保守派の基本的なイデオロギーは、オーストリアのカトリック教会聖職者の間で共有されていた最も保守主義的な要素と本質的には同じものであり、イタリアやドイツの実際のファシズムナチズムとは矛盾する特徴を有していた。

1934年5月に新憲法が制定され、祖国戦線が唯一の政治的組織となった。
長期的な余波リンツのホテル・シッフに置かれた、内乱の犠牲者や自由や正義の為に戦った人々を讃える記念物。ここで内乱が始まった

国際的な比較の中では小さい事件であるが(その後すぐに発生した第二次世界大戦の恐ろしい出来事と見比べれば特にそうだが)、オーストリア内戦は共和国の歴史の中で決定的な瞬間であった。

第二次世界大戦後、オーストリアが再び主権国家として形成された時、政治は再び社会民主党と保守派(オーストリア国民党として改組された)双方の二大政党制となった。しかしながら、第一共和国の苦い国民分裂の繰り返しを避ける為に、第二共和国の指導者達は幅広い共通認識に基づく新しい政治制度の導入を余儀なくされた。(社会民主党と国民党とによる)2つの主要な政党によって政権を共有し、武力を含む対立を防ぐために「大連立」の概念が導入された。この制度は安定性と連続性をもたらしたが、最終的に他の政治的な影響に繋がった(en:proporzも参照)。オーストリア内戦の出来事は、政治改革の速度の遅さ・慎重さは、社会的安定の為に払う費用だと考えれば安いものだと、政治的有力者達(実際には不特定多数の一般人)を説得する材料にもなっている。

しかしながら、オーストリアの政党は過去に於いて屡々殆ど何もしなかったと非難される。21世紀の初めでさえ、オーストリア社会は第一共和国や内戦の時代からの影響で、「赤」(社会主義者)と「黒」(保守主義者)との明確な断絶を背負っている。この断絶は、政治イデオロギーは一切関係無い筈の領域、例えば応急手当や自動車組合、自然科学の分野でも広範囲な平行線を引き続けている。
関連項目

オーストロファシズム - オーストリア・マルクス主義

オーストリアの歴史

オーストリア第一共和国

参考文献

Brook-Shepherd, Gordon (December 1996). The Austrians: a thousand-year odyssey.
HarperCollins. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 0 00 638255 X 


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