1999年貴族院法
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1999年貴族院法: House of Lords Act 1999
イギリス議会
正式名称An Act to restrict membership of the House of Lords by virtue of a hereditary peerage; to make related provision about disqualifications for voting at elections to, and for membership of, the House of Commons; and for connected purposes.
法律番号1999 c. 34[1]
提出者マーガレット・ベケット[2]
適用地域イングランド及びウェールズスコットランド北アイルランド
日付
裁可1999年11月11日[3]
発効1999年11月11日[4]
現況: 現行法
法律制定文
改正法の改訂条文

1999年貴族院法(1999ねんきぞくいんほう、英語: House of Lords Act 1999)は、イギリス法律、議会制定法。トニー・ブレア率いる労働党内閣のもと貴族院改革の一環として提出・検討され、1999年11月11日女王裁可を受けて施行された[3]世襲貴族は本法の制定によって自動的に貴族院の議席を得る権利を失ったが、前庶民院議長の提言から紋章院総裁を含む92名の世襲貴族は引き続いて同院の議席を占めることとなった[5]

貴族院は1999年10月の時点で1330議席を擁していたが、本法による議席の強制喪失に伴って施行後の2000年6月には669議席と半減した[6]。その結果、一代貴族の占める割合が増加して、同院における数的優位性をもたらした[7]
背景
英国議会史と改革までの道英国議会議事堂軍隊を伴って乱入した国王に強く諫言するレンソール庶民院議長。19世紀の画家チャールズ・ウェスト・コープによって描かれた。

イングランドにおける二院制を基礎とする会議体は14世紀中葉に成立した[8]。これ以降、クロムウェル台頭期に貴族院が廃された時期を除き、二院制は確立された制度として現在に至っている[9]。その歴史においては、16世紀までは庶民院が貴族院の下級的地位に甘んじるものであったが、徐々に対等な関係性が構築されていく[10]

17世紀の清教徒革命および名誉革命絶対王政の終焉を促進するとともに、その政治的支配権を貴族院より庶民院に移行させる嚆矢となった[11]。例えば長期議会中の1641年に、国王チャールズ1世が法と慣例を破って議院内に軍隊を伴って登院、王に反抗的な5人の議員(英語版)の逮捕を迫った[12][13]。この際に、庶民院議長ウィリアム・レンソール(英語版)は国王に敢然と『国王陛下、私は議院に仕える者としてここにいるのですから、議会の指示なしには陛下に対して見る目も聞く耳も持ちません。陛下のご下問に対しては、こう奉答する以外にはございません』と啖呵を切って、庶民院の地位の向上に成功している[12][13]

さらにこれ以降の歴史においても、1832年改革法による選挙権拡大以後は、「貴族院は予算などの重要な政策に対して最終的に庶民院に譲歩すべき」といった考え方が醸成されるに至り、一段と庶民院の優勢化が進んだ[14]。こうした傾向と慣習は1911年議会法1949年議会法成立に伴って一段と強化されるとともに、さらに一歩踏み込んで「貴族院に代わる第二院の形成を指向する」流れとなった[註釈 1][15]。ただし、貴族院内では依然として保守党による支配が継続しており、改革を伴う法案等は果敢に反対、廃案に追い込まれている[16]。そのため、19世紀にかけては自由党が、20世紀以降は労働党がそれぞれ貴族院廃止を含む改革の必要性を訴え続けた[14]
ブレアによる貴族院改革示唆と反応貴族院改革を主導したトニー・ブレア

トニー・ブレア率いる労働党は1997年総選挙で地滑り的な勝利を収めて首相に就任した[註釈 2][18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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