1995年のル・マン24時間レース
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1995年のル・マン24時間レース
前年:1994翌年:1996
1995年のコース

1995年のル・マン24時間レース(24 Heures du Mans 1995 )は、63回目のル・マン24時間レースであり、1995年6月17日[1]から6月18日にかけてフランスル・マンサルト・サーキットで行われた。ル・マン史上最も雨量が多かったレースの1つで、約17時間雨が降り続いた。

優勝はJ.J.レートヤニック・ダルマス関谷正徳が駆るLMGT1クラスに参戦した59号車のマクラーレン・F1 GTR。これはマクラーレンの初優勝であると同時に、フィンランド人ドライバーと日本人ドライバーのル・マン初優勝でもあった[2]

今回がル・マン初出走であったマクラーレンの特筆すべき点は、上位5台のうち4台を占めた点であった。また、他のライバルメーカーは複数回出走して初めて優勝を達成しているが、マクラーレンはこのレースでル・マン初出場車としては初出走で初勝利をとげたメーカーとなった。これは第1回優勝車と、直近では1949年のフェラーリ166以来で、46年ぶりとなる勝利だった[3]

また、マリオ・アンドレッティクラージュは2位に終わるが、これはアンドレッティにとっての自身最高位となった。

マクラーレン・F1 GTRはル・マン以前よりBPRグローバルGTシリーズで圧倒的な強さを見せていた。1995年に当時欧州のプライベーター選手権であったBPR グローバルGTシリーズでデビューしたマクラーレンF1GTRのル・マン参戦は、本来の参戦計画としては6台のエントリーで決まっていた。マクラーレン車のエントリーは、ゼッケン24号車と25号車にガルフ・マクラーレン。42号車がソシエテ・BBAコンペティション、49号車がWEST(FM)コンペティション。50号車がジロワレーシングのジロイクス・ジャカディ・マクラーレン。51号車がデレック・ベルと、ジャスティン・ベルの親子が乗るデビット・プライス・レーシングハロッズ・マクラーレンであった。

F1GTRはBPRシリーズで勝ってはいたが、有利という印象はなかったうえ、24時間レースは初めてであり、未知数だった。事実ル・マンでは初出走のクルマが総合優勝するのは相当難しい。実際F1 GTRの設計者のゴードン・マレーもクラッチやミッションは24時間もつかどうかわからない、と事前に発言していた。マクラーレンは他にも信頼性の問題を抱えており、20年後インタビューに答えたグラハム・ハンフリーズ(元スパイス・テクニカルディレクター[4][5]によると、ハンフリーズはマクラーレン勢が苦しんでいたギアセレクトのトラブルの原因が露出したギアリンケージ機構への浸水であることを突き止め、ピットストップごとに湿気防止スプレーのWD-40を吹き付けるという対策を講じた [6]

ル・マンで優勝したゼッケン59号車両は、マクラーレンカーズ所有のGTRの開発車両であった。これは株式会社国際開発の経営や上野クリニックを展開していた[7]佐山元一がこのクルマの大ファンであり、F1 GTRのル・マン参戦を聞きつけるやスポンサーとなることを依頼してきた。元インディカードライバーとして知られるロジャー安川の父で、レイトンハウスF1チームでマネージャーを務めた安川実がアジア極東マーケティング担当としてマクラーレンで働いており、安川を通じて上野クリニックのスポンサーを獲得することで、追加でもう1台を走らせることが急遽決まる。つまり当初は優勝したマクラーレン(59号車)はル・マンに出走する予定ではなかったのである。予定外であったため、新車を制作できずにシャシーナンバー01Rという初期のテストや開発のために使われたワークスマシンで走行可能だったプロトタイプを急遽レースカーに仕立てた。エントリーチームはランザンテ・モータースポーツ[8]に貸し出され、マクラーレンのユニット12が準備した。このマネジメントのもと、佐山が直接かかわる国際開発のレーシングチームとして「国際開発UK」とした。マシンはマクラーレン・カーズの所有。一方で他チームのマクラーレンマシンは各チームの所有物だった。マクラーレンのチーフエンジニアであるジェームズ・ロビンソンが監督して国際開発レーシングに代わって実行、運営された。国際開発UKの車両オーナーがマクラーレンであるので、実質的なワークスマシンであった。こうして、ゼッケン59号車としてコクサイ・カイハツUKレーシングというエントリー名のマクラーレンを関谷、ダルマス、レートが乗ることとなった。他のマクラーレンと異なりル・マンに送り出す前にすべてのパーツを組み込むことができた唯一のマシンであったものの、使用車両が完成したのは本番のわずか6週間前になったので、最初からほぼぶつけ本番と化した。このため金曜の夜にはル・マンのコース近くの空港でレートとダルマスがテスト走行を行う。このテストをしておいたため、決勝ではメカニカルトラブルはまったく発生しなかったという。結果として59号車がトップでゴールすることでマクラーレンはル・マン24時間耐久レースに初参戦した年に優勝を飾ることになった。マクラーレン側も盛大に喜ぶとともに、優勝のきっかけとなった上野クリニックに対しても強く感謝したという。

GT2クラスの上位は、ホンダ・NSXと2台のキャロウェイ・コルベットが獲得。1970年代半ば以降から前年までのようにポルシェ・911に支配された時代とは異なり、メーカーの多様性を示していた。
概要

これまで長年隆盛を誇ってきたグループCカテゴリーのマシンが出場できなくなり、さらにGTカテゴリーのマシンが中心になった[9]。この年のF1 GTR のル・マン参戦コストは、大手メーカーのワークスに比べればプライベーターによるベンチャー企業チームのような規模で参戦したため、ワークスチームの10分の1にも満たない75万ポンドほどだったと言われている。

なお、バジェットキャップの一環として、ワークスチームの出場が見込まれたWSCとLMGT1ではテレメトリーシステムの使用が禁止された[9]

国際モータースポーツ協会(IMSA)との良好な協力関係が継続しているため、フランス西部自動車クラブ(ACO)はLMP1カテゴリを段階的に廃止し、代わりにIMSAのワールドスポーツカー(WSC)クラスに基づいた規制を策定した。その見返りにIMSAは、グループCシャーシの多くがまだ流通していることを考慮して、ターボエンジン車をWSCクラスに参戦させる事に同意した[10]。LMP2クラスはそのまま残された。ただし、他のクラスには次の制限があり、一部は前年から修正された[10]

WSC:エンジンは最大4.0Lまたは3.0L(ターボ)、回転限界8,500rpm(2バルブV8)または10,500rpm(4バルブV12)、燃料タンク80L、エンジンのサイズとタイプに応じた最小重量、最大タイヤ幅18インチ

LMP2:燃料タンク80L、最小重量620kg、市販エンジン、最大タイヤ幅12インチ

LMGT1:燃料タンク100L、最小重量900kg、最大タイヤ幅14インチ

LMGT2:燃料タンク100L、最小重量900kg、最大タイヤ幅12インチ

1994年のレースでポルシェが物議をかもした、「1台限りのロードカーで車両公認」のルールは、LMGT1でそのままであった。ただし、LMGT2は1995年2月以降に連続して生産された車両がベースである必要があった。

これらのレギュレーション変更は大きな関心を集め、ACOは99のエントリーを受理した。これに対応して、ACOはさらにピットを2つ増設し、50台の出走を可能にした。それまでの実績を考慮して20チームに自動的に出走を許可し、残りの30チームは予備予選によって決定された。

スポーツカーのスペシャリストであるクラージュ、クレマー、WR、デボラは、IMSAチャンピオンシップから参戦、またフェラーリが333SPモモ・レーシングのジャンピエロ・モレッティに委託するという体制で22年ぶりにプロトタイプカーで参戦した。

日本勢は主にLMGT1クラスで活躍し、トヨタ日産マツダホンダが参戦した。また、総合優勝したマクラーレンにも関谷正徳が搭乗するなど日本との繋がりがあった。
WSC

グループCカテゴリーのマシンの出場はできなくなったが、これまで同様にIMSAとの提携を継続し、プロトタイプカーであるWSCクラスの出走を認めた[9]

ロータリーエンジンを含め自動車メーカーから市販されているエンジンを搭載することが条件で、チューンにも細かい制限がある[9]。エンジン回転数もバルブ数や気筒数で制限があり、エンジンにより性能差が出ないようエアリストリクターも設定された[9]


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