1995年のイギリスツーリングカー選手権
前年:1994翌年:1996
1995年のオートトレーダー・RAC イギリスツーリングカー選手権 (英語: 1995 Auto Trader RAC British Touring Car Championship) は、イギリスツーリングカー選手権の38年目のシーズン。ボクスホールのジョン・クレランドがタイトルを獲得した。インディペンデントのタイトルはフォードのマット・ニールが獲得した。 レースは全てダブルヘッダーとなり、各レースでフルポイントが与えられた。例外はイギリスグランプリ
シーズン概要
1994年にアルファロメオが初めて使用した空力補助装置をめぐる論争に続いて、TOCAはウィングとスポイラーが新シーズンの全ての車両に適格であると発表した。
アルファ・コルセ
は1994年シーズンを支配したが、1995年シーズンはイタリアスーパツーリング選手権に戻り、ワークスチームはプロドライブが運営する。デレック・ワーウィックが全戦に出場し、ジャンピエロ・シモーニとチャンピオンのガブリエル・タルキーニは出場ラウンドを分け合った。シーズンはアルファにとって残念なものとなった。ライバルの車は開発途中の155を抜いて、イタリアチームは勝利どころか表彰台に上ることもできなかったアルファはシーズンの終わりに選手権から完全に撤退し、ヨーロッパ選手権エントリーに集中した。TWRはボルボ・850エステートをサルーンに置き換えた。リカルド・リデルは1992年のチャンピオンであるティム・ハーベイがチームメイトとなり、両者ともにタイトルを狙える位置についた。リデルはシーズンを通して13回のポールポジションを獲得し、シーズン終盤までタイトル争いに加わった。
ルノーはラグナを再設計したウィリアムズF1と合流した。アラン・メニュはシーズンを通して最多勝利を挙げ、1991年のチャンピオンであるウィル・ホイに支えられた。ルノーは総合的にマニファクチャラーズタイトルを獲得し、メニュはドライバーズタイトルのためにリデルやジョン・クレランドと戦った。
フォードはモンデオ3年目で、二度の世界ツーリングカーカップタイトルを持つポール・ラディシッチに大きな期待を寄せていた。悲しむべきことにフォードは他チームほど開発に多額の投資をしておらず、ラディシッチの勝利は1勝のみでモンデオはシーズンを通してその戦闘力が低下していった。アンディ・ロウズは前シーズンをもってシリーズから徹底し、彼の代わりにフル出場したケルビン・バートも1勝を挙げた。
ボクスホールはシーズンの終わりに翌シーズンは新しいベクトラを投入することを発表したので、1995年はキャバリエ最後のシーズンとなった。ジョン・クレランドのチームメイトとして、ジェフ・アラムに代わってジェームス・トンプソンが加わり、ボルボとルノーが激しい競争を繰り広げたにもかかわらず、クレランドの一貫性とキャバリエの信頼性がドライバーとチームのタイトルを獲得した。
チーム・シュニッツァーは1995年に世界中の他のツーリングカー選手権に深く関わり、1994年のBTCCドライバーのヨアヒム・ヴィンケルホックはドイツスーパーツーリング選手権に参戦、タイトルを獲得した。一方スティーブ・ソパーも全日本ツーリングカー選手権のタイトルを獲得する。BMWはイギリス選手権にジョニー・チェコットとデヴィッド・ブラバムを起用した。シーズンは悲惨なもので、勝利も表彰台も得ることができなかった。
トヨタはジュリアン・ベイリーとティム・サグデンを維持し、トヨタチームヨーロッパはカリーナを投入したが、好成績を挙げることはできず、トヨタは次シーズンのパドックでの存在感を大幅に減らした。
プジョーは昨シーズンに405を投入した。パトリック・ワッツが再びチームをリードし、チームメイトが不振に見舞われてもなんとか堅実な結果を残すことができた。405はクラス規定から外れることとなり、1996年シーズンには406が投入される。
ホンダはデイビッド・レズリーと2度のインディペンテントチャンピオンのジェームズ・ケイを起用してモータースポーツ・ディベロップメントと共にシリーズに参戦、アコードを投入した。アコードはシーズン終盤に向けて調子を上げ、レズリーはオウルトン・パークで表彰台を獲得した。
インディペンデント・チャンピオンシップでは、マット・ニールがシーズンを支配し、アンディ・ロウズ・エンジニアリングが制作したフォード・モンデオで2度目のタイトルを容易に獲得した[1]。ミント・モータースポーツもアンディ・ロウズ・エンジニアリングが制作した1993年型のモンデオ[2] をリチャード・ケイに与えた。ケイはBTCCデビューイヤーでインディペンデント2位となった。3位は参戦2年目のナイジェル・スミス[3]。4位はプジョーのハミッシュ・アーバイン[4]。1990年のチャンピオン、ロブ・グラヴェットはドニントン・パークでの開幕戦にボクスホール・キャバリエで出場し[5]、その後シルバーストンにフォード・モンデオで出場した[6]。スネッタートンで彼は2リッター時代のインディペンデント・ドライバーとして最初の完全な表彰台フィニッシュを達成した。オーストラリア人ドライバーのチャーリー・コックスもフォード・モンデオで6位に入った[7]。彼は戦略的なタイヤの選択で、4月のブランズ・ハッチでは5位でフィニッシュしている。次のスラクストンでは多重クラッシュに巻き込まれ長期にわたっての欠場を余儀なくされた。ブランズ・ハッチでようやく復帰したが[8]、彼がドライブしたモンデオはイギリスでレースをした最初のハッチバックモンデオであった。 チーム車両No.ドライバー出場ラウンド
参加チームおよびドライバー
マニファクチャラー
アルファ・ロメオ・オールドスパイス・レーシングアルファロメオ・155 TS1 ガブリエル・タルキーニ5, 9-13
5 ジャンピエロ・シモーニ1-8
55 デレック・ワーウィック全戦
ウィリアムズ・ルノー・ディーラー・レーシングルノー・ラグナ2 アラン・メニュ全戦
22 ウィル・ホイ全戦
バルボリン・チーム・モンデオフォード・モンデオ ギア3 ポール・ラディシッチ全戦
33 ケルビン・バート全戦