この項目では、1994年から1995年にかけてのメジャーリーグベースボールのストライキについて説明しています。1981年のメジャーリーグベースボールのストライキについては「1981年のMLBストライキ」をご覧ください。
1994年から1995年のMLBストライキ(1994?95 Major League Baseball strike)とは、1994年8月12日から翌1995年4月2日までの232日間にわたり、メジャーリーグベースボール(MLB)の選手が起こしたプロ野球ストライキである。
プロスポーツ史上最長のストライキとなった[1]。MLBのストライキはこれ以前に4度(1972年・1980年・1981年・1985年)行われている[2]。1994年の8月12日から1995年4月24日までのシーズン公式戦合計938試合は全て中止となり、1994年のワールドシリーズも中止となった。ワールドシリーズの中止は1904年以来90年ぶりで2回目(この時はナショナルリーグ側の対戦拒否により中止)であり、第一次世界大戦と第二次世界大戦中も移動制限や応召を受けながら一度も中止されずに開催されてきた。なお、マイナーリーグベースボール(MiLB)の試合は通常通りに行われた。232日にも及んだストライキの代償は大きく、大規模なファン離れが生じた。 MLBに所属する選手の平均年俸は年々増加の一途をたどり、1989年には49万ドル(当時約5880万円)だったのに対し、1994年には倍以上の115万ドル(当時約1億3800万円)へと膨れ上がっていた[3]。その人材費増大は特に小規模市場の球団経営を圧迫し、スター選手が大規模市場球団へフリーエージェント(FA)などで移籍することで、球団間の戦力格差に繋がるデメリットも生じていた。その象徴がピッツバーグ・パイレーツであり、1990年からナショナルリーグ東地区で3連覇を遂げながら、バリー・ボンズらの主力選手が流出し、1993年には5位に転落した。逆にボンズを獲得したサンフランシスコ・ジャイアンツは、サンフランシスコへ移転して以来最高の観客動員数を1993年に記録していた。さらにピーター・ユベロスコミッショナーの時代に締結された高額テレビ契約も1993年に切れ、放映権料の収入が大幅にダウンした。 1993年で労働協約が期限切れになるのに伴い、1994年3月にフロリダ州タンパで労使間の新労働協約交渉が開始された[4]。経営者側は6月14日にサラリーキャップ制度の導入を提案した[4]。これは具体的にチームが選手に支払う収益に占める年俸総額の割合を現行の58%から50%に、また1球団当たりの選手の年俸を28球団の平均額の84%から110%の範囲に抑えるプランである。市場規模が小さい都市を本拠地とする球団の人件費膨張を防ぐのが最大の狙いで、NBAでは10年前の1984年から導入され、そこそこに成功したとの評価を受けていた[5](NBAサラリーキャップ)。提案では年俸調停が廃止され、FAの取得に要する在籍年数は6年から4年に引き下げられるが、在籍年数6年未満のFA選手には制限が付き、球団は選手を保持することが出来るようになっていた[4]。これに対してMLB選手会の専務理事だったドナルド・フェア
背景
ミルウォーキー・ブルワーズのオーナーであったバド・セリグがコミッショナー代行に就任していたことも経営者側が強気の姿勢を崩さない背景としてあった。セリグ以前の7人のコミッショナーはいずれも労使間の中立にある立場の出身者ばかりだった。話し合いを遅らせることで不利になることを恐れた選手会は、7月28日にストライキ突入の最終期限を8月12日に設定し、経営者側に圧力を掛けた。経営者側はストライキの構えなど怖くないと言わんばかりに8月の選手の年金基金への払い込みを差し控えた。これは「交渉期間中は、団体労働協約が終了した後でさえも、交渉が行き詰まるまで給与と福利厚生に関して現状を維持しなければならない」という全国労働関係法に違反していた。選手会側が訴え、全米労働関係委員会
(英語版)(NLRB)によって「不当労働行為」と認定された[6]。ファンはストライキに反対(スト直前の試合中には「The strike sucks!!」等の横断幕が掲げられた)するも本格的な交渉は行われず、宣言通りに8月12日からストに突入した。9月14日にはついに、コミッショナー代行のセリグが1994年の公式戦の残り試合全てとプレイオフ(ディビジョンシリーズとリーグチャンピオンシップシリーズ)、1994年のワールドシリーズも中止する声明を発表した[7]。
当時のアメリカ合衆国大統領だったビル・クリントンは10月14日に元労働長官のウィリアム・ユザリー
を政府調停人に任命して解決に当たらせた[8]。ユザリーは鋭く対立する労使双方に手を焼き、12月14日には協議が決裂した[6]。23日に経営者側は交渉が行き詰まったと宣言し、一方的にサラリーキャップ制度を導入した。27日に選手会側は雇用条件に違反する一方的変更に当たるとして、再びNLRBに訴えた[6]。1995年1月26日に大統領のクリントンは「ベーブ・ルースの生誕100周年に当たる2月6日にストライキ続行中というのは耐えられない。その日までに解決するように」との声明を発表した。2月7日にはプロスポーツ史上初めて大統領がホワイトハウスに労使双方を呼びつけ、自ら和解の調停に乗り出す異例の事態となった。大統領の提案は人望の厚い中立の立場の人物に新契約での姿勢を示し、その人物に新労働協約の条件をどのようにするか決定させるというものだったが、経営者側がこれを拒否したために調停は失敗に終わった[8][6]。翌8日に、選手会側は経営者側が最近に行ったばかりの労働協約の条件の一方的変更(年俸調停の廃止、共同謀議禁止条項の削除)が「不当労働行為」に当たるとしてNLRBに新たに訴えた[6]。
経営者側は長引くストへの対抗措置として、MiLB所属選手や元MLB選手たちを集めてスプリングトレーニングやオープン戦の開催を強行し、代替選手による1995年シーズンの開幕を目論んだ[1]。3月14日、選手会側は代替選手がシーズンの公式戦で使用された場合はストを中止するための交渉に一切応じないと表明した。しかし、経営者側も必ずしも足並みが揃っていたわけではなく、以前に労働組合の弁護士を務めていたボルチモア・オリオールズのオーナーであるピーター・アンジェロスは、カル・リプケン・ジュニアの連続試合出場記録を守るために代替選手の使用案に猛反対し、代替選手を使用しない方針を表明した。