1993年米騒動
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2017年5月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2022年12月)
出典検索?: "1993年米騒動" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL

1993年米騒動(1993ねんこめそうどう)とは、1993年平成5年)の日本における記録的な冷夏による不足現象の総称。

大正の米騒動」と呼ばれる1918年米騒動に対して、平成米騒動(へいせいのこめそうどう)とも呼ばれる。

1993年の記録的冷夏は、20世紀最大級ともいわれる1991年(平成3年)6月のフィリピンピナトゥボ山(ピナツボ山)噴火が原因で発生したと考えられている[1]の気温は平年より2度から3度以上も下回った[2]
概要

この社会現象は1993年の天候不順による冷害のために、日本で栽培されていたイネの記録的な生育不良から生じたコメの食糧市場の混乱と、これに関連して世界のコメ市場にまで波及した影響を指す。

この現象では消費者はもとより、卸売業者までもが米の確保に奔走し、小売店の店頭から米が消えるといった混乱が発生したが、同時に普段は米を扱わない業者までもが、消費者の関心を集めるために米を仕入れて販売するといったケースも発生した。

1994年には、一転して水不足と言われた夏の猛暑により米の作柄が回復したことを受け、米不足は同年後半に収束した。
経緯

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "1993年米騒動" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年7月)

1993年は、梅雨前線が長期間日本に停滞し、いったんは例年通りに梅雨明け宣言が発表されたものの、気象庁は8月下旬に沖縄県以外の梅雨明け宣言を取り消しするという事態となった。日照不足と長雨による影響で米の作柄が心配されるようになった。結果として、この年の日本全国の作況指数は「著しい不良」の水準となる90を大きく下回る74となった。「平成5年8月豪雨」も参照

作況指数は北海道が40、東北地方全体が56、やませの影響が大きかった太平洋側の青森県が28、岩手県が30、宮城県が37、福島県が61、九州地方宮崎県以外70台まで下落した[3]第二次世界大戦後では格段に低い数字となり、下北半島では「収穫が皆無」を示す作況指数0の地域も続出した。なお、全国の作況指数は74、東北地方で最も高かったのが秋田県の83、次いで山形県の79だが、さらに秋田県の南部から山形県にかけての地域に限ってみれば90を越えており、同じ東北地方でも地域ごとに大きな隔たりがあった[4]

1993年のコメ需要量は1,000万トンあったが、収穫量が783万トンになる事態となり、政府備蓄米の23万トンを総て放出しても[5]需要と供給の差で200万トン以上不足し、東北の米農家が自家用の米を購入するほどであった。北東北では翌年の種の確保が出来なくなる地域もあった。

高度経済成長期以降、消費者が食味・品質を追求する傾向が強まったため、生産地で冷害に弱くても質の良いブランド米への志向が高まったこと、農家が日本国政府農林水産省)の減反政策に翻弄されて営農意欲を削がれ、深水管理などの基本技術を励行できなかったことも、被害を拡大させた。

コメの供給不足により、米価秋口から少しずつ上昇を始めた。細川内閣9月タイ王国中国アメリカ合衆国から合計259万トンのコメの緊急輸入を行うと発表した。従前の「コメは一粒たりとも入れない」という禁輸方針は脆くも崩れた。

しかし当時は、日本人がいわゆる和食への原点回帰や、食の安全に強い関心を向け始めた時代でもあり、ポストハーベスト農薬への警戒と、消費者の輸入農作物に対する不信感が存在していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef