1992-1993シーズンのNBA
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1992-1993シーズンのNBA
シカゴ・ブルズ 
期間1992年11月4日-1993年6月20日
TV 放送NBC, TBS
観客動員数17,778,295人
サラリーキャップ1400万ドル
平均サラリー130万ドル
ドラフト
レギュラーシーズン
トップシードフェニックス・サンズ
MVPチャールズ・バークレー
スタッツリーダー 
  得点マイケル・ジョーダン
チーム平均得点105.3得点
プレーオフ
.mw-parser-output .monospaced{font-family:monospace,monospace} イースタン  優勝シカゴ・ブルズ
  ニューヨーク・ニックス
ファイナル
 チャンピオン シカゴ・ブルズ
ファイナルMVPマイケル・ジョーダン
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1992-1993シーズンのNBAは、NBAの47回目のシーズンである。
シャック登場

1990年代のNBAは名センターの宝庫と言われている。バスケット界は時代に関係なく慢性的なセンター不足にあったが、当時のNBAにはアキーム・オラジュワンパトリック・ユーイングデビッド・ロビンソンなどその名を歴史に刻む名選手が同時期に在籍していた。そしてこの年、また一人新たな怪物センターがNBA入りを果たす。シャキール・オニール、通称"シャック"である。

まずその風貌からして異様だった。NBA入りたての当時はまだ線が細いほうだったが、それでも他のベテランセンターと比べても一回り大きな体躯を誇り、ただコートに立つだけで異様な存在感を周囲に放っていた。そして彼が一度動き出すと見る者の度肝を抜いたものである。あの風貌からは想像もつかない程の俊敏さ、コートを駆け巡る脚力、そして風貌通りのパワーを誇り、他を圧倒したのである。時代は1980年代中盤にNBA入りしたいわゆるジョーダン世代と呼ばれる選手たちがリーグを支配していたが、シャックの登場は来る新時代を予感させるに十分なインパクトがあった。

そのオニールはドラフトオーランド・マジックから全体1位指名を受けた。また90年代末にシャックとトップセンターの座を争うアロンゾ・モーニングは2位指名でシャーロット・ホーネッツに入団。他には、クリスチャン・レイトナー(3位)、ジミー・ジャクソン(4位)、ラフォンゾ・エリス(5位)、トム・ググリオッタ(6位)、ウォルト・ウィリアムス(7位)、トッド・デイ(8位)、クラレンス・ウェザースプーン(9位)、アダム・キーフ(10位)、ロバート・オーリー(11位)、ハロルド・マイナー(12位)、ブライアント・スティス(13位)、マリック・シーリー(14位)、アンソニー・ピーラー(15位)、ダグ・クリスティ(17位)、トレーシー・マレー(18位)、ドン・マクレーン(19位)、ヒューバート・デイビス(20位)、ジョン・バリー(21位)、オリバー・ミラー(22位)、リー・メイベリー(23位)、ラトレル・スプリーウェル(24位)、P.J.ブラウン(29位)、ショーン・ルックス(30位)、ブレント・プライス(32位)、ポパイ・ジョーンズ(41位)、マット・ガイガー(42位)、プレドラグ・ダニロヴィッチ(43位)らが指名を受けている。ドラフト外選手にはサム・マック、ダーリック・マーティン、レジー・スレイター、マーク・ストリックランド、デイビッド・ウェズリーなどがいる。

オールスターにはS・オニール、A・モーニング、C・レイトナー、T・ググリオッタ、L・スプリーウェルの5人が選出されている。

 詳細は1992年のNBAドラフトを参照
ドリームチーム

ドリームチーム結成はNBAの国際的な人気を決定付けた出来事である。

1988年のソウル五輪でアメリカ代表がソ連代表に敗退し、金メダルを逃したことはバスケット大国アメリカの威信が大きく揺らぐと共に、学生主体による代表チームの限界を知らしめるものだった。この頃オリンピックはフアン・アントニオ・サマランチ会長指導のもとプロ選手受け入れの流れが急速に進んでおり、1989年には国際バスケットボール連盟もプロ選手の国際大会出場を容認した。アメリカでプロバスケットボール選手と言えばNBA選手であり、ここにNBA選手のオリンピック出場の用意が整った。


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