1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー
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1992年のパリ-モスクワ-北京ラリーは、1992年9月1日から9月27日にかけて開催されたモータースポーツラリーレイド大会である。フランスパリを出発し、ロシアモスクワを経由して、中華人民共和国北京に到着するまで、ユーラシア大陸約16,000kmを横断した。正式な大会名称は「第1回 ウエスト-イースト パリ-モスクワ-北京マラソンレイド (1st WEST-EAST PARIS-MOSCOW-BEIJING MARATHON RAID)」[1]
概要1907年北京-パリのルート

1907年、フランスのル・マタン紙 (Le Matin) の呼びかけにより、ユーラシア大陸を東の北京から西のパリまで16,000km横断する壮大な自動車レース「北京-パリ (Peking to Paris) 」が開催された。参加5台中4台が完走し、優勝者のシッピオーネ・ボルゲーゼ公爵 (Scipione Borghese) らが乗るイターラ (Itala) はスタートから2カ月後にパリに到着した[2]。その後は2度の世界大戦民族紛争東西冷戦によって冒険の再現は困難になってしまったが、1980年代になると米ソ緊張緩和と中国の改革開放政策に加えて、パリ-ダカールラリー(パリダカ)の成功もあり、北京-パリを復活させようとする機運が高まった[3]。パリダカの創始者であるティエリー・サビーヌも「次の夢」と語っていた[4]

パリ-モスクワ-北京ラリーの実現にこぎつけたのは、日本の三菱商事であった。1986年の新経営方針「K-PLAN」の一環として発足した首都圏事業部が立案し、自動車事業本部へと企画が持ち込まれた[5]。三菱商事にはパリダカで活躍していた三菱自動車工業のようなモータースポーツの実績はなかったが、大手総合商社ならではの海外ネットワークを活用した。1989年12月には運営母体としてフランスに子会社「MAPS」を設立し[6]、国際自動車スポーツ連盟 (FISA) やフランスモータースポーツ連盟 (FFSA) 、ソ連国家体育スポーツ委員会、中国モータースポーツ協会と交渉しながら、競技公認や通行許可、安全確保、物資補給などの課題を煮詰めていった。また、パリダカ四輪部門3勝を達成したルネ・メッジ (Rene Metge) をコースディレクターとして招聘し[7]、現地試走を重ねてルートを選定した。

このプロジェクトの準備期間には1989年6月の天安門事件、1989年11月のベルリンの壁崩壊、1989年12月の冷戦終結宣言(マルタ会談)、1990年10月の東西ドイツ統一、1991年1月の湾岸戦争といった世界情勢を変える出来事が続いた。本来ラリーは1991年9月1日にパリを出発する予定だったが、2週間前の8月19日にソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長が保守派によって軟禁される政変劇(8月クーデター)が発生したため、8月28日にMAPSが開催延期を表明した[8]。3カ月後の1991年12月にはソ連が崩壊し独立国家共同体 (CIS) へ移行。計画当初は7カ国[9]を通過する予定だったルートが、1992年9月に改めてラリーが決行された時には11カ国[10]を通過するかたちに変わっていた。

1年延期のトラブルに加え、テレビ放映権収入の見込みも外れて興行的には失敗に終わり、三菱商事はこの1回のみで撤退した[11]。第2回大会は1995年8月5日から26日にかけて「マスターラリー パリ-モスクワ-ウランバートル-北京」として開催された[12]。総合優勝は、三菱パジェロに乗るジャン=ピーエル・フォントネ(フランス語版)であった。
日程・ルート

総距離は16,082km[13]。地球一周(赤道の全周長)40,075kmの約40%にあたる距離を27日間で走破した。行程は9月1日から4日までがパリ-モスクワの移動区間(リエゾン)、9月5日から16日までがCIS域内の前半戦、9月17日から27日までが中国国内の後半戦というパートに分かれる。

1992年8月30日にパリ近郊のアランソンでプロローグ[14]1回目を行い、9月1日にパリ市内のエッフェル塔の向かいにあるトロカデロ広場を出発。パリ-モスクワ間3,000kmのリエゾンは、一般車両に交じってベルギーのブリュッセル、ドイツのベルリン、ポーランドのワルシャワ、ベラルーシのミンスクを通過。途中、ワルシャワでプロローグ2回目を行い、1回目との合計タイムでSS1のスタート順を決めた。モスクワの赤の広場で催されたセレモニーには20万人の群衆が詰めかけ、花火が打ち上がるお祭りムードの中で本格的な競技がスタートした。

CISルートは先ずロシア国内の黒土穀倉地帯を東進し、ヴォルガ川を渡り、東ヨーロッパから中央アジアへ。カザフスタン領内では広大なカザフステップからカスピ海東岸へと南下。トルクメニスタン領内では気温40度以上のカラクム砂漠を横断する。ウズベキスタン領内を経て、9月16日にキルギスタンの首都ビシュケクで休息日を迎え、ここで中国への入国手続きを済ませる。9月17日は天山山脈越えのリエゾン区間となり、標高3,750mのトルガルト峠にある国境の通関から中国領内へ入る。

中国ルートは新疆ウイグル自治区に始まり、天山山脈南麗のシルクロードの天山南路(西域北道)のオアシス都市に沿って東進する。9月18日のカシュガル-アクスは、タクラマカン砂漠では珍しい大雨によりスタックする車両が続出し、走行が途中で打ち切られた。甘粛省寧夏回族自治区内モンゴル自治区にかけては万里の長城の北よりゴビ砂漠モンゴル高原を通過。9月26日に行われるフフホト-バーターリンのSSを終えた時点で最終順位が確定した。最終日9月27日は車列を組んで北京市までビクトリーランを行い、天安門広場前を通って市内のチャイナ・ワールド・ホテル (China World Hotel, Beijing) で到着式典を行った。

日時行事地名走行距離(SS距離)[15]
8月30日プロローグ1 アランソン (Alencon)
9月1日スタートセレモニー パリ・トロカデロ広場 (Paris,Trocadero)
9月1日 - 2日リエゾン1 パリ (Paris) - ワルシャワ (POL)1,616 km
9月3日プロローグ2 ワルシャワ (Warsaw)
9月3日 - 4日リエゾン2 ワルシャワ (Warsaw) - モスクワ (Moscow)1,295 km


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