1991年の国際連合事務総長の選出
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1991年の国際連合事務総長の選出

1981年 ←
1991年10月10日 ? 1991年11月21日
→ 1996年


 
候補者ブトロス・ブトロス=ガーリバーナード・チゼロオルシェグン・オバサンジョ
出身国 エジプト ジンバブエ ナイジェリア
最多得票11 / 1510 / 159 / 15
拒否権なしなしなし
ラウンド第6回事前投票
1991年11月21日第2回事前投票
1991年10月21日第4回事前投票
1991年11月11日




選挙前事務総長

ハビエル・ペレス・デ・クエヤル
選出事務総長

ブトロス・ブトロス=ガーリ


1991年の国際連合事務総長の選出は、1991年12月31日に2期目の任期が満了するハビエル・ペレス・デ・クエヤルの後任を決めるために行われた。エジプトブトロス・ブトロス=ガーリが選出され、初のアフリカ出身の事務総長となった。

1991年の選出では、冷戦の終結を迎え、超大国間の対立から脱却した「新世界秩序」への期待が高まっていた[1]。その期待に応えるかのように、この選出は過去数十年で最もスムーズに行われた。いずれの候補者に対しても拒否権が行使されず、1981年1971年の選出が膠着状態になったのとは対照的だった[2]。1981年の選出で膠着状態からの脱却のために用いられた事前投票が、初めて1回目の投票から採用され、今後の選出における標準的な手順となった。また、第三世界の国々がアフリカ以外の候補者に事務総長職を与えないように投票したため、事務総長職の地域グループ持ち回りの原則が確立された。
背景

1991年以前、アフリカから事務総長が誕生したことはなかった。1981年の第1回投票では、タンザニアのサリム・アハメド・サリム(英語版)が最多得票を獲得したが、アメリカの拒否権により阻止された[3]。その後、中国がヴァルトハイムに16回、アメリカがサリムに15回も拒否権を行使し、選出は行き詰まった。その後、両者が立候補を辞退し、ラテンアメリカ初の事務総長としてハビエル・ペレス・デ・クエヤルが選ばれた[4]:411。

ペレス・デ・クエヤルの2期目の任期が満了する1991年、アフリカから事務総長候補を探すキャンペーンが始まった。アフリカ統一機構は、加盟国が国連総会でアフリカ以外の候補者に反対票を投じることを約束した。非同盟運動も、アフリカからの6人の公式候補者を支持した。非同盟運動は国連総会で過半数の票を持っているため、安全保障理事会が推薦する候補者を否決することができた[5]。中国は再びアフリカ出身の候補者の支持を表明した[5][6]。しかし、安保理の他の4つの常任理事国は、地域グループ持ち回りの原則を否定していた[6]。ソ連とフランスはペレス・デ・クエヤルの任期を2年ほど延長することも検討したが、ペレス・デ・クエヤルは引退を決意した[1]
候補者

アフリカ出身の候補者のうち6人は、アフリカ統一機構によって推薦された。それ以外の2人は自国からの指名だった。アフリカ出身者以外の指名もあった。

公式の候補者
肖像候補者地位指名国・者地域グループ
サドルッディーン・アーガー・ハーン(英語版)国連イラク救援活動代表[5]不明アジア太平洋グループ西ヨーロッパ・その他グループ
ブトロス・ブトロス=ガーリ[5]元エジプト外務大臣アフリカ統一機構アフリカグループ
ハンス・バン・デン・ブリュック(英語版)オランダ外務大臣不明西ヨーロッパ・その他グループ
グロ・ハーレム・ブルントラントノルウェー首相不明西ヨーロッパ・その他グループ
バーナード・チゼロ[5]世界銀行開発委員会議長アフリカ統一機構アフリカグループ
ケネス・ダジ(英語版)[5]国際連合貿易開発会議事務総長アフリカ統一機構アフリカグループ
ジェームズ・ジョナ[5]国連事務次官(特別政治問題担当)[7]アフリカ統一機構アフリカグループ
マイケル・ドゥー=キング[5]不明(安保理理事国)アフリカグループ
ラウル・マングラプス(英語版)フィリピン外務大臣不明アジア太平洋グループ
ブライアン・マルルーニーカナダ首相[8]西ヨーロッパ・その他グループ


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