1991年のル・マン24時間レース
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1991年のル・マン24時間レース
前年:1990翌年:1992
1991年のコース

1991年のル・マン24時間レース(24 Heures du Mans 1991 )は、59回目のル・マン24時間レースであり、1991年6月22日から6月23日にかけてフランスのサルト・サーキットで行われた。
概要

スポーツカー世界選手権(SWC)は新たに「排気量3,500ccまでの自然吸気エンジン、マシンの最低重量750kg、燃費制限なし」の新グループC規格でスタートし、ル・マン24時間レースはこの新カテゴリーC1と、従前のグループCカテゴリーC2との混走となった[1]。ただ資金や時間が掛かるためと、他のSWC戦との走行距離の違いによる信頼性への不安から、新カテゴリーでのル・マン24時間レースへの参加車両は少なかった。

従前のグループC車両での参戦は1991年までとされ、最低重量が原則1,000kgという重いハンディキャップが課せられ、全く戦闘力を奪われた。これほど厳しくされたのは、フォーミュラ1においてノンターボエンジンの排気量上限が1987年から3,000ccから3,500ccに上げられるなど、ターボエンジン搭載車両に不利になるレギュレーション変更のをものともせず、1988年のF1世界選手権ホンダが1,500ccターボエンジンの性能を上げて圧倒的な勝利を挙げたことと、前年のル・マンにて日産が莫大な物量作戦で性能を上げたことを重ね合わせたからである。ただマツダは前年のレースで惨敗して周囲に警戒されておらず、その最低重量はSWCでは830kg、ル・マン24時間レースでは880kgと決められた[2]

トヨタ自動車は1992年の途中からSWCに3,500ccエンジンを投入する予定になっていたこと、また世界ラリー選手権(WRC)でタイトルが取れそうになっていたことで、予算を取られてル・マン24時間レース用車両に手が回らず不参加を決めた。

日産自動車は社内の足の引っ張り合いで、ル・マン24時間レースの参加条件として全戦参戦が義務付けられていたSWCへの不参加を決めた。ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパのメンバーをクラージュ・コンペティションに移し、クラージュ・コンペティション名義でSWCに参戦し参加資格を得る方法も検討されたがこれも実現しなかった。その後も追浜の中央研究所並びにニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(ニスモ)で重量1,000kgの24時間レース用車日産・R91CPの開発は続けられた。また日産のアメリカにおけるレース子会社であるNPTI日産・R90CKデイトナ24時間レースに参戦。ここでR90CKは桁違いの速さを見せ、他車のパーツを踏みつける不運なアクシデントに見舞われたものの、17周遅れの2位に入賞。ヨーロッパから遠征して来ていた他社は強い警戒感を抱いたとの見方もある[2]

結果的にトヨタと日産が不参加となったため、日本から参戦したのはマツダのみとなった。マツダは1991年1月に起きたイラククウェート侵攻でスケジュールが狂ったが、大きな問題にはならなかった[2]トム・ウォーキンショーの支援を仰いで2月にル・マン24時間レースでの最低重量が他のSWCイベントと同じ830kgに軽減された[1][2]4月4日マツダ・787Bが完成、ポール・リカール・サーキットで4,500kmに及ぶ耐久走行試験をトラブルなしでこなし、カーボンブレーキの採用を決定した[2]。SWCの善戦から最低重量を880kgに戻す議論が出て来てもおかしくなくなった頃に、下記のようにポルシェが安全面での懸念を示して950kgに軽減されたため、ここでマツダの最低重量を増やすわけにも行かず、マツダの最低重量を880kgに戻す話は立ち消えになった[2]

1980年代に耐久レースを席巻したポルシェ・962Cは、この時代には各プライベートチームで独自の改良が加えられ、原型を保っている車両の方が少なかった。新たに3,250ccエンジンをヨースト・レーシングブルン・モータースポーツに供給したたものの、最低車重1,000kgでは安全性を保証できないため「できれば1991年のSWC出場を見合わせるように」と通達を出した[1][2]。実際に市販されているレーシングカーのうち多数を占めるポルシェが撤退してしまえばレースが成立しないおそれがあり、その後最低重量がル・マンを除くSWCシリーズでは950kgに軽減された[2]

3月18日にSWCへの参加台数がわずかに18台であることが判明し、出走台数50台確保を前提に興行権を渡してル・マン24時間レースをSWCに復帰させたフランス西部自動車クラブ(ACO)は激怒した。これに対し国際自動車スポーツ連盟(FISA、現国際自動車連盟)が「約束したのは40台で、最終締め切りの5月18日までに40台確保する」と回答したためACOはますます態度を硬化させた[2]。台数確保のためにル・マン24時間レース単独での参戦を認める旨のファックスが3月27日に日産自動車宛に送られたが、ル・マン24時間レースの参戦権を得るため費用を掛けてSWCにフル参戦して来たメーカーがこれに猛反発し、FISAは日産自動車の参戦を認める決定を覆した[2]。とは言え一方的に日産を追放したわけではなく、FISAは代わりにSWCのエントリー締め切りを開幕戦鈴鹿の予選前日まで引き延ばす配慮を示す。予選を走るだけで構わないと[3]。しかし結局日産は鈴鹿に姿を現さず、その時点で1991年ル・マンの欠場が決まった。欧州のジャーナリストにとっては日産のこの行動は理解不能だったと言う。FISAはメルセデス・ベンツジャガーにシリーズ参戦している新規格車(カテゴリー1)をル・マンでもエントリーするよう命じた。この年のル・マンのエントリーはわずかに46台(Tカーを除く)。うちチーム・バークレー・ロンドンのスパイスSE90Cは姿を現さず、クラージュ・コンペティションのクーガーC24Sが最低車重7s不足し車検落ちした[4]。予選出走は44台に。

狭くて使い勝手が悪いだけでなく、危険でもありチームとドライバーに不評だったピットは「世界最新鋭」とも言えるような近代設備に生まれ変わった。ピットロードは従前の2倍に拡張され、ピットガレージは奥行き10mを優に越える程広く、その2階は広いラウンジ、3階は巨大なプレスルームになった。また先着順で場所が決まっていたため、ドライバーから少しでも見やすい場所を巡ってトラブルが多かったサインを出すシグナル・ステーションも廃止され、他のサーキットと同様にピットからサインを出すようになった[2]

これらの改良に対して「昔の情緒がなくなった」という者も少なくなくかった。しかし特に昔のル・マン24時間レースを知る者にとってショックだったのはピットの新装ではなく、ユーノディエールの中程にあってファン・マヌエル・ファンジオスターリング・モスも訪れサインを残していた「レストラン24時間」が華僑に買収され、中華料理店になってしまったことだった[2]

ポスターは開催国のプジョー・905を差し置いてジャガー・XJR14が使われた[1]
カテゴリー1

排気量3,500ccまでの自然吸気エンジン、マシンの最低重量750kgと定められた新グループC規格である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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