1989年ポーランド議会選挙
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1989年ポーランド議会選挙
Wybory parlamentarne w Polsce w 1989 roku

1985 ←
1989年6月4日 (1989-06-04) (第一回投票)
1989年6月18日 (1989-06-18) (第二回投票)
→ 1991


投票率62.7% (第一回投票)
25% (第二回投票)
 多数党少数党第3党
 
党首ヴォイチェフ・ヤルゼルスキレフ・ヴァウェンサRoman Malinowski
政党ポーランド統一労働者党独立自主管理労働組合「連帯」統一農民党
党首就任1981年10月18日1988年1981
前回選挙2550117議席, 25.4%
獲得議席17316176
議席増減7216141
得票率37.6%35%16.5%

 第4党第5党第6党
 
党首Tadeusz Witold M?y?czakRyszard ReiffKazimierz Morawski
政党民主党パックス協会キリスト教社会連盟
党首就任197619791989
前回選挙39議席, 8.5%00
獲得議席27108
議席増減12108
得票率5.8%2.1%1.7%

1989年ポーランド議会選挙(1989ねんポーランドぎかいせんきょ、ポーランド語: Wybory parlamentarne w Polsce w 1989 roku)は、ポーランド人民共和国(当時)の立法府であるセイム下院)と新設されたセナト上院)の議員を選出するため、1989年6月(4日と18日)に行われた選挙である。
概要

1988年8月から始まった共産党(ポーランド統一労働者党)政府の経済政策への抗議と、独立自主管理労働組合「連帯」(以下「連帯」)合法化を求めて行われた大規模ストライキ(ゼネラル・ストライキ)に端を発した政治的混乱を打開するため開かれた、政府側と反政府派による「円卓会議」で合意された内容に沿って、行われた選挙である。

部分的な自由選挙であったが、選挙の結果、「連帯」系が自由選挙枠で圧勝した。そして選挙後の1989年9月7日東ヨーロッパでは第二次世界大戦後初めてとなる非共産党政権が発足した。

東欧民主化革命の火蓋を切った出来事でもあり、ポーランドの歴史においても、共産党一党独裁国家(ポーランド人民共和国)から、民主共和制国家(ポーランド共和国・第三共和制)に変わる転換点にもなった。
円卓会議合意に基づく政治改革部門の合意

「円卓会議」は、1989年2月から始まり、4月5日に合意文書への調印がなされた。そして、4月7日に国会で新選挙法が採択、4月17日には「連帯」が再合法化、4月20日には農民「連帯」が再合法化された。

「円卓会議」では、「政治改革」と「社会経済政策」、「労働組合複数制」の3部門に分かれて議論が進められ、合意にこぎ着けた。ここでは、政治改革部門の内、下院と上院の選挙制度に関連した部分について取り上げる[1][2]
下院(セイム)選挙制度

現国会を引き継ぐ下院(セイム)460議席の内、65%(299議席)はポーランド統一労働者党(PZPR)とその衛星政党に事前配分(PZPR及び衛星政党枠)。残る35%(161議席)については自由選挙枠とする。なお次回選挙からは100%自由選挙を目指す。

PZPR及び衛星政党枠65%の内、5%はキリスト教系団体(パックス、キリスト教社会連盟、カトリック社会同盟)に配分される。また、PZPR及び衛星政党枠の内、一部は全国区(35議席)で任命される。有効投票の過半数の支持で当選する。


「円卓会議」での合意に基づく各選挙区の定数にPZPR、衛星政党、キリスト教系団体、自由選挙枠をどのように配分するかについては国家評議会が決定する(各選挙区に最低でも1議席を自由選挙枠として割り振る)。

上院(セナト)選挙制度


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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