1987年の日本シリーズ
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1987年の日本シリーズ
ゲームデータ
日本一
西武ライオンズ
2年連続7回目
4勝2敗
試合日程1987年昭和62年)10月25日-11月1日
最高殊勲選手工藤公康
敢闘賞選手篠塚利夫
チームデータ
西武ライオンズ()
監督森祇晶
シーズン成績71勝45敗14分(シーズン1位) 
読売ジャイアンツ()
監督王貞治
シーズン成績76勝43敗11分(シーズン1位)
日本シリーズ ≪ 1986 1988 ≫
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1987年の日本シリーズ(1987ねんのにっぽんシリーズ、1987ねんのにほんシリーズ)は、1987年昭和62年)10月25日から11月1日まで行われたセ・リーグ優勝チームの読売ジャイアンツパ・リーグ優勝チームの西武ライオンズによる第38回プロ野球日本選手権シリーズである。
概要

この年より、パ・リーグ主催試合のみ指名打者(DH)制の採用が認められる方式になった。また、前回1986年広島東洋カープ対西武第1戦の延長14回引き分けを教訓として、延長戦のルールが見直され、時間制限廃止・第7試合までは延長18回まで、本割りで決まらず第8試合以後の決着となった場合は延長も無制限とするルールが制定された。

森祇晶監督率いる西武ライオンズ王貞治監督率いる読売ジャイアンツの対戦となった1987年の日本シリーズは、1983年と同じ組合せで、巨人OB対決となった。西武が4勝2敗で勝利し、2年連続7度目の日本一(西鉄時代を含む。西武では4度目)。MVPは2完投の工藤が1972年1973年の堀内恒夫以来となる2年連続日本シリーズMVPに選ばれた。

西武が日本一に王手をかけて迎えた第6戦、西武の守備走塁コーチの伊原春樹は、シリーズ前から把握していた巨人の守備の甘さに乗じて、2回に二塁走者の清原和博飛で、8回に一塁走者の辻発彦を中前の単打で、それぞれ一気に本塁に生還させる。2回の清原の走塁は、中堅手ウォーレン・クロマティの緩慢な送球、中継に入った二塁手篠塚利夫は清原が既に三塁を回って本塁に向かっているにもかかわらず三塁に投げる、さらに三塁手原辰徳は清原が本塁に向かっているにもかかわらず三塁ベース上でタッチのそぶりをした後本塁に送球するという、3つのミスが続いた隙を突いたものである。8回の辻の走塁は、再びクロマティの緩慢な送球と、中継に入った遊撃手川相昌弘の、先の塁にいる辻よりも打者走者に気を取られ、三塁を回る辻を見ていないという癖に付け込んだものであった[1]

森は、西武監督退任後の自著で、このシリーズを監督としての自らが経験した8回のシリーズで「最高傑作といっていいかもしれない」とし、「監督、コーチ、選手が一丸となって勝ち取った日本一」を、その理由としている[1]

また森は「巨人は15勝でチーム勝ち頭の桑田真澄が第一戦目の先発投手だったが、2年目で経験が浅く序盤に攻略できた。警戒していた江川卓槙原寛己は第3、4戦で、2人とも1試合だけ。戦略の間違いがあった」と述べている[2]

巨人は前年のシリーズMVPの左腕投手・工藤公康を打てず、第6戦で原が放ったソロ本塁打が工藤からの唯一の得点だった。森の自著では、この年の巨人打線は左投手を苦手にしていたというデータがあったとおりと振り返られている[1]。第6戦の9回表、西武の日本一決定目前の場面で清原が突然涙を流し、それをなだめる辻の姿も見られた[3]PL学園高校の同期、清原と桑田の「KK対決」は、第1戦では2打数1安打1四球で、第5戦では第1打席のみの対決で、結果は二ゴロだった。
試合結果

1987年 日本シリーズ日付試合ビジター球団(先攻)スコアホーム球団(後攻)開催球場
10月24日(土)第1戦雨天中止西武ライオンズ球場
10月25日(日)読売ジャイアンツ7 - 3西武ライオンズ
10月26日(月)第2戦読売ジャイアンツ0 - 6西武ライオンズ
10月27日(火)移動日
10月28日(水)第3戦西武ライオンズ2 - 1読売ジャイアンツ後楽園球場
10月29日(木)第4戦西武ライオンズ0 - 4読売ジャイアンツ
10月30日(金)第5戦西武ライオンズ3 - 1読売ジャイアンツ
10月31日(土)移動日
11月1日(日)第6戦読売ジャイアンツ1 - 3西武ライオンズ西武ライオンズ球場
優勝:西武ライオンズ(2年連続7回目)

第1戦


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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