1985年の世界ラリー選手権
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1985年の世界ラリー選手権
優勝ドライバー
ティモ・サロネン
優勝マニュファクチャラー
プジョー
前年:1984翌年:1986

1985年の世界ラリー選手権(1985 World Rally Championship season)は、FIA世界ラリー選手権の第13回大会となる。前年同様全12戦でタイトルが争われた。プジョーティモ・サロネンアウディスティグ・ブロンクビストヴァルター・ロールに打ち勝ってタイトルを収めた。プジョーは初のマニュファクチャラーズ・タイトルを獲得した。
シーズン概要プジョー・205ターボ16 E2、2008年撮影

前年のシーズン後半に新たなグループBカー、プジョー・205ターボ16で成功を収めたプジョー・タルボ・スポールが今年はフル参戦した。昨年終盤4戦で3勝を挙げたアリ・バタネンは開幕戦のモンテカルロでコ・ドライバーのテリー・ハリーマンのミスで8分のペナルティを与えられたが、その後アウディのヴァルター・ロールをかわして優勝した。スウェーデンでもバタネンは連勝し、シーズン序盤をリード、プジョーもアウディをリードした。

5月のツール・ド・コルスで悲劇が発生した。第4ステージでランチア・ラリー037を駆るイタリア人ドライバー、アッティリオ・ベッテガが木に衝突して即死した。コ・ドライバーのマウリツィオ・ペリシノットは無傷で助かった。この事故はグループBカーの安全性に疑問を投げかけることとなった。皮肉なことに、翌年のツール・ド・コルスでヘンリ・トイヴォネンが事故死したことでFIAはグループBカーの禁止を決定した。

第8戦のアルゼンチンではバタネンが事故に遭遇した。不幸にもバタネンはトップギアのまま長い下り道でクラッシュし横転した。外装は粉々になったものの、ロールケージが衝撃の大部分を吸収した。バタネンはプジョーのヘリコプターで病院に運ばれ、負傷は大きく生命に危険を及ぼす物と思われた。彼は後に回復して復帰したが、プジョーチームはティモ・サロネンに頼らざるを得なくなった。サロネンは既に選手権をリードしていたが、結局は5勝を挙げてタイトルを獲得した。クワトロ・スポーツ、1985年

アウディ・スポーツはプジョー・205の強力な戦闘力と、本社によるラリープログラムへの関与の縮小という二重の圧力に直面していた。グループB車両によるラリーの危険性に対する認識が広まり、会社は安全対策の改善無しに関与を続ける事に対する疑問を抱いていた。スティグ・ブロンクビストヴァルター・ロールは引き続いてアウディをドライブしたが、ライバルのプジョーの前に苦戦し、ランキングは2位、3位となった。アウディはシーズンで1勝しか挙げられず、ロールのサンレモでの勝利はアウディのグループBによるWRC最後の勝利であった。

ランチア・マルティーニチームの失望はアウディのそれよりも大きかった。後輪駆動のランチア・ラリー037は1勝も挙げることができなかった。トイヴォネンは事故で首の脊椎3本を骨折し、シーズンの大半を棒に振った[1]。チームはデルタ S4の完成を待った。それは4輪駆動で、アドバンテージをもたらすはずであった。デルタは最終戦に投入されトイヴォネンの手で優勝を獲得した。デルタはチームに対して翌年への希望を与えた。

オースチン・ローバーは3リッターV6エンジンを搭載したメトロ6R4でRACに参戦し、表彰台を獲得した。昨シーズンは全12戦にドライバーズポイントが掛けられたが、マニファクチャラーズポイントは11戦のみに掛けられた。コートジボワールはマニファクチャラーズタイトルから除外された。
参加チームとドライバー

チームコンストラクター車両タイヤドライバー参戦ラウンド
アウディ・スポーツアウディクワトロ・スポーツM スティグ・ブロンクビスト1-4, 6-9
ヴァルター・ロール1-3, 5-7, 10, 12
ハンヌ・ミッコラ2, 4, 9, 12
パー・エクルンド2, 9, 12
マルコム・スチュワート7
ヴィルフリート・ヴィードナー8
ミシェル・ムートン11
フランツ・ブラウン11
プジョー・タルボ・スポールプジョー205ターボ16
205ターボ16 E2M アリ・バタネン1-8
ティモ・サロネン1-10, 12


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