1984-1985シーズンのNBA
ロサンゼルス・レイカーズ
期間1984年10月26日-1985年6月9日
TV 放送CBS, TBS
観客動員数10,506,355人
サラリーキャップ360万ドル
平均サラリー33万ドル
ドラフト
レギュラーシーズン
トップシードボストン・セルティックス
MVPラリー・バード
スタッツリーダー
得点バーナード・キング
チーム平均得点110.8得点
プレーオフ
イースタン 優勝ボストン・セルティックス
フィラデルフィア・76ers
ウェスタン 優勝ロサンゼルス・レイカーズ
デンバー・ナゲッツ
ファイナル
チャンピオン ロサンゼルス・レイカーズ
ファイナルMVPカリーム・アブドゥル=ジャバー
<1983-841985-86>
1984-1985シーズンのNBAは、NBAの39回目のシーズンである。 1984年はNBAの歴史の中でも特別な年に位置づけられている。マジック・ジョンソンとラリー・バードの登場で危機的な状況から救われたNBAが、さらなる飛躍を果たし、アメリカという枠を飛び越えて国際的な人気を勝ち得ていく上での、起点となった年だからである。すなわち、マイケル・ジョーダンの登場、ジョーダン世代と呼ばれるスター選手のリーグ全体への分散、デビッド・スターンのコミッショナー就任、サラリーキャップ制度の導入である。当時はマジック・ジョンソンとラリー・バードの直接対決が大きな注目を集め、これらの事象はそれほど重要視されていなかった。 古今東西あらゆるバスケット選手の中でも別格とされているマイケル・ジョーダンは、しかしドラフトで指名された当初、多くのNBA関係者は彼がここまでの存在になるとは予想していなかった。ジョーダンの学生生活は他のスター選手が歩んだような華々しいものではなく、高校生の頃はバスケットチームにさえ入れてもらえなかった。大学はバスケットの名門校であるノースカロライナ大学に進学したが、当時注目を集めていたのはチームメイトのジェームス・ウォージーで、ジョーダンは彼の陰に隠れた存在だった。ジョーダンにウォージー、そしてサム・パーキンスと、後に振り返れば非常に豪華な選手を揃えていたノースカロライナ大は1982年のNCAAトーナメント決勝に進出。対戦相手は後にジョーダン終生のライバルとなるパトリック・ユーイング率いるジョージタウン大学だった。全米が注目するこの大舞台で、1年生だったジョーダンは彼の運命を大きく変えるショットを決める。残り32秒で1点を追うノースカロライナ大は、重要なショットをエースのウォージーではなく、ジョーダンに託した。残り17秒、ジョーダンが放ったジャンプショットは綺麗にゴールに吸い込まれ、ノースカロライナ大の全米制覇を決定付けた。ジョーダンの"ザ・ショット"伝説の始まりだった。ジョーダンは瞬く間にカレッジ界のスター選手となり、3年生の時にはジョン・ウッデン カレッジ界で不動の評価を得たジョーダンだが、NBAのスカウト陣の視線は別の選手に注がれていた。ヒューストン大学
目次
1 1984年ショック
1.1 ジョーダンの登場
1.2 ジョーダン世代
1.3 デビッド・スターン
1.4 サラリーキャップ
2 シーズン前
2.1 ドラフト
2.2 その他
3 シーズン
3.1 オールスター
3.2 イースタン・カンファレンス
3.3 ウエスタン・カンファレンス
3.4 スタッツリーダー
3.5 各賞
3.6 ジョーダン旋風
3.7 シーズン概要
4 プレーオフ・ファイナル
4.1 そこに情熱を見た
4.1.1 第1戦
4.1.2 第2戦
4.1.3 第3戦
4.1.4 第4戦
4.1.5 第5戦
4.1.6 第6戦
4.2 結果
5 ラストシーズン
6 外部リンク
1984年ショック
ジョーダンの登場
そして運命のドラフト当日。ロケッツは微塵の迷いも無くオラジュワンを1位指名した。2位指名権はペイサーズではなく、過去のトレードからポートランド・トレイルブレイザーズに譲渡されていた。ブレイザーズにはすでにジム・パクソン
やクライド・ドレクスラーが居た為、同じシューティングガードのジョーダンを指名する必要はなかった。そしてブレイザーズはサム・ブーイを指名した。後に「ドラフト史上最大の失態」との酷評を受けるこの指名も当時は順当なもので、たとえ膝に不安を抱えていようともケンタッキー大学のスターセンターを見逃す理由は、ブレイザーズには無かった。そして3位指名の番になって、ようやくジョーダンの名前が呼ばれた。ジョーダンはシカゴ・ブルズに入団したのである。当初ジョーダンを指名したブルズですら、彼の真の価値に気づいてはいなかった。しかしドラフト後のロサンゼルス五輪に出場したジョーダンは国際舞台でも華々しい活躍を見せ、アメリカ代表を金メダルに導いた。