1982年のF1世界選手権
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2度の王者ニキ・ラウダがマクラーレンの誘いで2シーズンぶりにカムバック。巨額の契約金が話題となりつつ、2勝を記録した。マリオ・アンドレッティヨッヘン・マスデレック・デイリーがこの年をもってF1から引退した。下位のコンストラクターフィッティパルディエンサインセオドールへ合流)が姿を消した。

シーズン後の12月にはロータスの総帥コーリン・チャップマンが54歳で急逝するというショッキングな出来事が起こる。さらに、FISAが翌年からのフラットボトム規定導入を発表し、グラウンド・エフェクト・カーの時代は終焉する。
ストライキ

今年度よりスーパーライセンスの発給手続きが変更になり、ドライバーが所属するチームのサインが必要となった。GPDA会長のピローニはFIAからこの決定を前年末に知らされていたが、その内容の重要さに気づかず放置したため、いざスーパーライセンス発給の段階で多くのドライバーが異議を申し立てた。GPDAは結束して開幕戦のストライキを宣言、ドライバーに不利な条項の撤回を求めた。FIAの裁定を仰ぐことになり、ドライバー側の言い分が通ったことから、開幕戦は予選1日目をキャンセルしたのみで開催された[1]。なお、テオ・ファビヨッヘン・マスはストライキ参加しなかった唯一のドライバーだった[2]
水タンク事件

ノンターボエンジンで戦うチームは、パワフルなターボエンジンを有するチームに対抗するため、マシンの軽量化を図ろうとした。

第2戦ブラジルグランプリにおいて、DFVエンジンを積むマクラーレン、ウィリアムズ、ブラバムの3チームは、約20?30リットルの水タンクを積んで出場した。走りだすとこれをブレーキ冷却用に使用し、コース上にまき散らす。これで約20?30キログラム車が軽くなり、レースが終わってから水を補給することで、車検で最低重量の規定をクリアできる[3]。しかしこの作戦を使用し1位でゴールしたピケと2位のロズベルグに対し、レース後にこの水タンクが車両規則に違反するのではと抗議が出され、結果2人は失格となり3位でゴールしたプロストが繰り上げ優勝という裁定が下された。もっとも次戦アメリカ西グランプリでは、軽量化のメリットをねらってターボエンジンを使用するルノーもこの水タンクを装着していた[1]

事件の背景には、FISAとFOCAとの対立があるとされる。裁定に不満を持ったFOCA側チームは、第4戦サンマリノグランプリをボイコットする。
開催地及び勝者

ラウンドレース開催日開催地ポールポジションファステストラップ優勝者コンストラクターレポート
1 南アフリカグランプリ1月23日キャラミ ルネ・アルヌー アラン・プロスト アラン・プロストルノー詳細
2 ブラジルグランプリ3月21日ジャカレパグア アラン・プロスト アラン・プロスト アラン・プロストルノー詳細
3 アメリカ西グランプリ4月4日ロングビーチ アンドレア・デ・チェザリス ニキ・ラウダ ニキ・ラウダマクラーレン-フォード詳細
4 サンマリノグランプリ4月25日イモラ ルネ・アルヌー ディディエ・ピローニ ディディエ・ピローニフェラーリ詳細


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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