1980年モスクワオリンピック
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男子体操団体総合 - 1960年のローマオリンピックから1976年のモントリオールオリンピック(以下モントリオール)まで続いた5連覇が自動的に途絶え、金メダル奪回は2004年のアテネオリンピックにて実現した[1]。
バレーボール - その後、男女とも未だに金メダルの再獲得には至っていない。
男子ハンドボール - 1984年のロサンゼルスオリンピック(以下、ロサンゼルス)、1988年のソウルオリンピック(以下、ソウル)と2大会連続出場を果たすも、モントリオールの9位には及ばず。その後、自国開催の2020年東京オリンピック(以下、東京)まで33年間出場が途絶えた。
女子バスケットボール - ボイコットへ動き出していた最中に世界予選出場も敗退。モントリオール以来の2度目の出場は1996年のアトランタオリンピックまで20年を要した。
男子バスケットボール、同ホッケー、女子ハンドボール - 自国開催の東京まで出場権獲得はならなかった。特に男子バスケットボールは開催国枠も失う危機に見舞われた。
個人競技の影響
赤井英和 (ボクシング) - 補欠として代表の可能性を残していたが完全消滅。その後、大学生の身分のままプロに転向した[1]。
石原敬士(クレー射撃) - 1968年のメキシコシティーオリンピックを協会の不祥事で出場を閉ざされて以来機会に恵まれず、念願の代表選出だったが、これも幻に終わった。2016年のリオデジャネイロオリンピックでは、次女である石原奈央子(英語版)がオリンピック出場を果たした[9]。その後、東京の聖火ランナーに内定し、COVID-19の影響による開催延期を経ながらも2021年にランナーとして参加、延べ53年越しで祈願のオリンピック関係者となった。
香月清人 (柔道) - 前年の世界柔道選手権71kg級で優勝。代表が内定していたがボイコットを契機に一度は現役引退。その後、大阪府警の柔道師範として警察官を指導していたこともあった[10]。
蒲池猛夫(ライフル射撃) - 現役引退。後に復帰し、ロサンゼルスにて日本最年長記録で金メダルを獲得する。2014年に死去。
具志堅幸司(体操競技) - ロサンゼルスに出場し、金メダルを獲得。同じくロサンゼルスで出場が叶った梶谷信之は銀メダル、外村康二、山脇恭二も銅メダルを獲得した。
坂本典男・坂本勉 (トラックレース) - 自転車初の兄弟五輪代表選手となるはずだったが、幻に終わった[11]。その後、典男は競輪に転向。勉はロサンゼルスで日本自転車初メダルとなる銅メダルを獲得している。
瀬古利彦 (マラソン) - その後、ロサンゼルス、ソウルと2大会連続出場を果たしたものの、ソウルで9位にとどまった[1]。
宗茂・宗猛 (マラソン) - 一卵性双生児の五輪代表選手は幻に終わったが、ロサンゼルスで実現。しかし茂は17位、猛は4位とともにメダルには届かなかった。
高田裕司 (レスリング) - 現役引退。後に復帰しロサンゼルスで銅メダルを獲得したが、「優勝したら表彰台から金メダルを投げていた」と後年語っている[12]。
長義和 (トラックレース) - 1977年に日本競輪学校に合格しながらも、それを辞退して当大会にかけたものの出場は叶わず。当時存在した競輪学校の年齢制限(24歳未満)のため競輪選手への道も閉ざされたことから、このまま現役を退いた。
津田真男 (ボート、シングルスカル) - ほとんど一人の力で代表の座を勝ち取ったが、幻の出場に終わった[注釈 1]。その後、国内各地のレガッタに出場した。
長崎宏子 (水泳) - 当時11歳。夏季五輪では初めての小学生の五輪代表選手だった[注釈 2]が幻に終わった[1]。その後、ロサンゼルス、ソウルと出場したが、いずれもメダル獲得は果たせなかった。
藤猪省太 (柔道) - 世界柔道選手権4回優勝の実績者で、代表が内定していたものの出場叶わず。その後指導者となり、2008年の北京オリンピックでは審判員としてオリンピックの舞台に立った。
宮内輝和 (レスリング) - 大学を中退し、大相撲に転向。
谷津嘉章 (レスリング) - プロレスに転向。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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