なお、この前にテレビ朝日の重役で「怪物」と呼ばれた三浦甲子二がソ連の高官と会っていたことからチュメニ油田に絡む黒い噂を含む怪文書が流れたことがある。 五輪期間中、モスクワではモノ不足による店の行列が消えた。外国人の目に実態が触れぬよう、当局がフィンランドで商品を買い占め、店の棚に並べさせていた[2]。街中では、清涼飲料水のコカ・コーラやファンタが当時のソ連にはなかった使い捨てコップで売られた。缶ビールやたばこのマールボロも現れた。外国製のガムはソ連製と違って味が長持ちした。一般市民はつかの間、西側の豊かさを実感した[2]。もっとも、子供たちは五輪中、サマーキャンプなどに送り出された。犯罪歴のある者や反体制派知識人は100キロ以上離れた僻地に隔離された。住民がだいぶ少なくなったモスクワには、全国から私服の秘密警察要員が集められた[2]。 大会そのものは事件もなく平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットによりその権威が失墜したことは疑いようがなかった。ソ連の失望と怒りは深く、次のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットにつながった。それを暗示するように、閉会式での電光掲示板では「ロサンゼルスで会いましょう」という文字が一切出なかった。 大会後、第3代キラニン男爵マイケル・モリスがIOC会長を退任し、後任にフアン・アントニオ・サマランチが新会長となった。これ以上の大量ボイコットを避ける為の政治的独立と、その裏付けになる経済的自立を志向し結果的にテレビ放映権や大型スポンサー契約に依存する商業主義への傾斜を強め、プロ選手の出場解禁に道を付けた。 種目によっては、世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。
影響
大会期間中
国際的影響
日本国内の影響
団体競技の影響
男子体操団体総合 - 1960年のローマオリンピックから1976年のモントリオールオリンピック(以下モントリオール)まで続いた5連覇が自動的に途絶え、金メダル奪回は2004年のアテネオリンピックにて実現した[1]。
バレーボール - その後、男女とも未だに金メダルの再獲得には至っていない。
男子ハンドボール - 1984年のロサンゼルスオリンピック(以下、ロサンゼルス)、1988年のソウルオリンピック(以下、ソウル)と2大会連続出場を果たすも、モントリオールの9位には及ばず。その後、自国開催の2020年東京オリンピック(以下、東京)まで33年間出場が途絶えた。
女子バスケットボール - ボイコットへ動き出していた最中に世界予選出場も敗退。モントリオール以来の2度目の出場は1996年のアトランタオリンピックまで20年を要した。
男子バスケットボール、同ホッケー、女子ハンドボール - 自国開催の東京まで出場権獲得はならなかった。特に男子バスケットボールは開催国枠も失う危機に見舞われた。
個人競技の影響
赤井英和 (ボクシング) - 補欠として代表の可能性を残していたが完全消滅。その後、大学生の身分のままプロに転向した[1]。
石原敬士(クレー射撃) - 1968年のメキシコシティーオリンピックを協会の不祥事で出場を閉ざされて以来機会に恵まれず、念願の代表選出だったが、これも幻に終わった。2016年のリオデジャネイロオリンピックでは、次女である石原奈央子