1980年モスクワオリンピック
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瀬古利彦 (マラソン) - その後、ロサンゼルス、ソウルと2大会連続出場を果たしたものの、ソウルで9位にとどまった[1]

宗茂宗猛 (マラソン) - 一卵性双生児の五輪代表選手は幻に終わったが、ロサンゼルスで実現。しかし茂は17位、猛は4位とともにメダルには届かなかった。

高田裕司 (レスリング) - 現役引退。後に復帰しロサンゼルスで銅メダルを獲得したが、「優勝したら表彰台から金メダルを投げていた」と後年語っている[12]

長義和 (トラックレース) - 1977年に日本競輪学校に合格しながらも、それを辞退して当大会にかけたものの出場は叶わず。当時存在した競輪学校の年齢制限(24歳未満)のため競輪選手への道も閉ざされたことから、このまま現役を退いた。

津田真男 (ボート、シングルスカル) - ほとんど一人の力で代表の座を勝ち取ったが、幻の出場に終わった[注釈 1]。その後、国内各地のレガッタに出場した。

長崎宏子 (水泳) - 当時11歳。夏季五輪では初めての小学生の五輪代表選手だった[注釈 2]が幻に終わった[1]。その後、ロサンゼルス、ソウルと出場したが、いずれもメダル獲得は果たせなかった。

藤猪省太 (柔道) - 世界柔道選手権4回優勝の実績者で、代表が内定していたものの出場叶わず。その後指導者となり、2008年北京オリンピックでは審判員としてオリンピックの舞台に立った。

宮内輝和 (レスリング) - 大学を中退し、大相撲に転向。

谷津嘉章 (レスリング) - プロレスに転向。1986年に復帰するもオリンピック出場果たせず。

山下泰裕 (柔道) - ボイコット決定のショックから翌日に全日本体重別選手権で骨折を追う不運も重なるが、当時の東海大学総長松前重義の勧めで現地観戦。ロサンゼルスに出場し、金メダルを獲得。現在は日本オリンピック委員会の会長を務める[1][12]

テレビ朝日


1977年の社名変更に続く大改革の柱だったオリンピック独占中継の価値が大暴落し、大きなダメージを負った[1]。ただ、この中継の留守番予備軍として大量に採用したアナウンサー達から古舘伊知郎南美希子佐々木正洋宮嶋泰子吉澤一彦渡辺宜嗣といった、のちに活躍することになる局アナを多く輩出した。

その後のJOCの対応


不本意ながら、政府のボイコット指示を受け入れざるを得なかったJOCは政府(文部省)から自立する形での組織の基盤強化の必要性を痛感し、1989年日本体育協会から独立、財団法人としての活動を行うこととなった。

再招致

モスクワは2012年夏季オリンピックの開催地に立候補したが、最初の投票で落選した。なお、同年の開催地となったロンドンの招致委員長がこの五輪で男子陸上1500m金メダリストのセバスチャン・コーであった。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 後に山際淳司の短編集「スローカーブを、もう一球」(「江夏の21球」が収録)で「たった一人のオリンピック」として紹介された。
^ 冬季は1936年の稲田悦子 (フィギュアスケート) がいる。

出典^ a b c d e f g h i j k l m n 『昭和55年 写真生活』p14-15(2017年、ダイアプレス)
^ a b c d 『プーチンとロシア革命: 百年の蹉跌』p213 遠藤良介著、ISBN 4309227554


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