1980年モスクワオリンピック
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共産圏社会主義国では初の開催となった[1]。後述するボイコット問題で、政治とスポーツ(英語版)の関係が問われた大会でもあった。
大会開催までの経緯

ソ連は、1952年ヘルシンキオリンピックオリンピックに初参加してから常に国別のメダル争いで上位に立ち、ステート・アマと呼ばれるトップ選手の金メダル獲得を国威発揚に活用していた。その集大成として、自国の首都であるモスクワでのオリンピック開催を目指すようになった。

一方で、オリンピック自体は巨大化の弊害が見え始め、1972年ミュンヘンオリンピックでのテロ事件ミュンヘンオリンピック事件)などもあり、開催都市への負担が大きくなってきた。

その中で、スポーツ大国のソ連が運営を全面的に担うというモスクワ開催は多くの支持を集め、1974年10月23日オーストリアウィーンで開かれた第75回国際オリンピック委員会総会でモスクワでの1980年夏季五輪の開催が決定された。

1980年夏季オリンピック 開催地投票都市国1回目
モスクワ ソビエト連邦39
ロサンゼルス アメリカ合衆国20

モスクワでの初の開催決定を受けて大会施設の建設が急ピッチで行われたほか、旧態化していたモスクワの当時の空の玄関であるシェレメーチエヴォ国際空港空港ターミナルビルが大幅改修されるなど行われた。
ボイコット問題.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  オリンピック初参加国  2回目以降の参加国  自国旗を用いず五輪旗を用いた参加国  不参加国

しかし、冷戦下において東側諸国の盟主的存在であるソ連で行われたこの大会は、前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、集団ボイコットという事態に至った[1]
主な国の動向開会式に入場する東ドイツ代表チームの旗手。

冷戦で、ソ連と対立していたアメリカ合衆国は1979年のソ連のアフガニスタン侵攻を口実に、五輪からソ連を締め出すことを決断しアメリカオリンピック委員会もこれを了承した。ブレジネフ政権は見返りも提示して説得工作を行ったが[2]失敗に終わり、最終的にアメリカのカーター大統領が1980年1月にボイコットを主唱したことから、日本分断国家西ドイツ韓国、それに1979年10月の国際オリンピック委員会 (IOC) 理事会(名古屋開催)でIOC加盟が承認されていたが、1960年代以降ソ連と対立関係にあった中国イランサウジアラビアパキスタンエジプトなどといったアフガニスタンムジャーヒディーンを支援するイスラム教諸国、および反共的立場の強い諸国など50カ国近くがボイコットを決めた[1]。アメリカはコートジボワールイタリア、日本、西ドイツ、中国といったボイコットした国々に対してモスクワ五輪に対抗した競技大会を準備し[3]、陸上競技のリバティ・ベル・クラシックや体操競技のUSGF国際招待大会(英語版)をアメリカで開催した。

一方、イギリスフランスイタリアオーストラリアオランダベルギーポルトガルスペインなどの西欧オセアニアの西側諸国の大半は参加した[1]。イギリスではボイコットを指示した政府の後援を得られず、オリンピック委員会が独力で選手を派遣した。


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