1979年の映画
11月11日 - 米国、作曲家ディミトリー・ティオムキン死去[2][8]。
12月22日 - 米国、ダリル・F・ザナック (映画プロデューサー)死去[2][9]。
12月30日 - 米国、作曲家リチャード・ロジャース死去[2][10]。
日本「1979年の日本#できごと」も参照
1月
1月20日 - 東宝、三越との共同出資により製作した『燃える秋』(小林正樹監督)を一般公開(先行ロードショーは前年12月23日)[3]。藤本真澄プロデューサー最後の作品[3]。
2月
にっかつ、本社を東京都港区赤坂・新本社ビル(のちのロッポニカビル)に移転[11]。
3月
にっかつ、新人女優オーディション(翌1980年からは「にっかつ新人女優コンテスト」に変更)に571人の応募[12]。
3月1日 - ATG、会長に井関種雄、社長に佐々木史郎就任[3]。
3月2日 - 新宿文化ビル(新宿文化劇場跡)竣工[3]。同ビル内に新宿文化シネマ1・2の2館開場[3]。
3月3日 - 東宝、資生堂、NTVとの共同出資により製作した初の外国製日本映画『ベルサイユのばら』(ジャック・ドゥミ監督)を公開[3]。
3月24日
「百恵友和 第10作記念作品」で、東宝・ホリプロダクションの企画・作品一般公募に『ホワイト・ラブ』(中川美和子)が入選[3]。
『総長の首』(中島貞夫監督)、東映初の先行ロードショー、4月7日から一般公開[4]。
4月
にっかつ、第13代社長に根本悌二就任[13]。
4月21日 - 今村昌平監督が8年ぶりにメガホンを握った『復讐するは我にあり』が公開[14][15]。
5月
5月2日 - 東宝取締役・映画プロデューサー藤本真澄(68歳)死去[5][6]。5月11日、東宝スタジオで社葬[3]。
5月31日 - 東映、『甦れ魔女』(佐藤純彌監督)、1980年モスクワオリンピック記念日ソ合作映画として正式に調印[4]。
6月
東宝グループの2月期連結業績を初めて発表[3]。連結会社34社で営業収入971億9300万円[3]。
6月23日 - 東京・新宿東映劇場にミニ劇場・新宿東映ホールを開設[4]。同劇場のこけら落としはTCC(東京シネマサーキット)第1回作品『下落合焼とりムービー』(山本晋也監督)[16]。
6月25日 - 東映洋画宣伝室、角川春樹事務所製作、東宝配給・興行『戦国自衛隊』(斎藤光正監督)の宣伝を担当[4][3]。
6月30日
クリストファー・リーヴ主演の『スーパーマン』が公開[17]。1本の宣伝費としては破格の6億円を掛けたが、海外の成績に比較すると日本の興行は予想を下回る結果(配給収入28億円)に終わった[14]。
幻の企画と言われた『あゝ野麦峠』(山本薩夫監督)が新日本映画によって映画化され、大ヒット[14][6](先行ロードショーは6月9日から[3])。
7月
『影武者』の主演・勝新太郎が黒澤明監督と衝突し、主役から降ろされる[14][18]。代役には仲代達矢[14][18]。
7月2日 - オフィス・アカデミーと東映の業務提携発表[3]。
7月7日 - 全米ベストセラーの映画化『将軍 SH?GUN』の日本ロケのため、サンフランシスコから出港した帆船ゴールデン・ハインド号が横浜港に入港[19]。
7月14日
恒例の「東映まんがまつり」ではなく、「'79 ビッグサマーロードショー・宇宙戦艦ヤマトフェスティバル」(『宇宙戦艦ヤマト』/『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』に『海のトリトン』を併映)を全国東映劇場で封切[4]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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