1979年東京都知事選挙
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1979年東京都知事選挙

1975年 ←
1979年4月8日 (1979-04-08)
→ 1983年


投票率55.16%
 
候補者鈴木俊一太田薫麻生良方
政党無所属無所属無所属
得票数1,900,2101,541,594911,825
得票率43.28%35.11%20.77%

選挙前知事

美濃部亮吉
無所属選出知事

鈴木俊一
無所属

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1979年東京都知事選挙(1979ねんとうきょうとちじせんきょ)は、1979年昭和54年)4月8日に執行された東京都知事選挙第9回統一地方選挙の一環として実施された。
概説
1977年

1977年9月、都知事の美濃部亮吉公明党委員長竹入義勝と会談し、4選不出馬の意思を明かした[1]。高齢が理由とされる。

同年10月、総評事務局長の富塚三夫は「個人の資格で」と前置きした上で、元総評議長の太田薫に2年後の都知事選への出馬を打診した。11月末、旧東京1区選出の衆議院議員の麻生良方は院内会派「無党派クラブ」の同僚の宇都宮徳馬に「都知事選に出る」と打ち明けたが、反対された[2]。またこの頃、革新候補として、元文部大臣の永井道雄を推す声も上がった[3]

同年12月13日、日本社会党は第41回定期大会続開大会を開催。横浜市長飛鳥田一雄が党委員長に就任した[4]。飛鳥田は12月28日に行われた横浜市会各派団長会議に出席し、委員長就任に伴い翌年3月上旬に市長を辞任すると述べた[5]
1978年

1978年2月16日、太田は記者会見し、都知事選への出馬の意思を正式に表明した。合成化学産業労働組合連合(合化労連)は同日に開いた中央委員会で太田の出馬を了承した。日本社会党と総評は太田の突然の出馬表明に困惑の反応を示した[3]

同年3月1日、飛鳥田は横浜市長を辞任[6]。国政選挙出馬を目指すが、地元横浜では反発が大きく、その後に旧東京1区から出ることが決まった。

同年7月、総評は大会を開き、太田支援を決定した[7]

同年8月、新自由クラブウシオ電機社長の牛尾治朗を擁立すると発表。牛尾自身はそれに伴い「現在は出馬の意思はない」とのコメントを発表した[8]

同年12月9日、日本社会党委員長飛鳥田一雄は、太田の行政手腕を危惧し、連立維持のため元一橋大学学長の都留重人に直接会い、出馬を要請するも承諾は得られなかった[9]

同年12月14日、飛鳥田と太田は都内のホテルで会談。飛鳥田が太田に社会党への「白紙委任」を迫ると、太田は「私の出馬はすでに合化労連、総評の機関決定を経ている。突然、白紙委任を求められても合化労連や総評と相談しなければ、今日は即答できない」と答えた。この太田の態度が飛鳥田の気に障った。16日、飛鳥田は「太田拒否宣言」の挙に出た[10][11]。17日、飛鳥田はソ連へ発った[10]

同年12月18日、衆議院議員の麻生良方は記者会見を開催。無党派を標榜し、出馬の意思を正式に表明した[12][注 1]。麻生の選挙区は激戦区として知られる東京1区であり、飛鳥田が出馬を名乗り上げたことから「怖くなって逃げだしたのでは」「一度名を上げるためのきっかけをつくるために都知事選を利用したのでは」などの憶測が流れた[2]

同日、総評事務局長の富塚は社会党書記長の多賀谷真稔と会い、飛鳥田が太田を受け入れられないと言ったことについて、社会党側の真意をただした。多賀谷は「飛鳥田委員長がソ連から帰ったら確認する」と答えた[11]

同年12月26日、都留は記者会見し、正式に不出馬を表明した[12]
1979年

前年12月から元事務局長の岩井章を窓口にして社会党との折衝を続けていた総評は、党内の動きをもとに、1979年1月4日までに「最終的には太田に落ち着く」と判断。6日の五役会議で社会党への白紙委任を決める手はずを整えた[15]

1979年1月5日、武蔵野市長の後藤喜八郎は都庁で記者会見し、都知事選への出馬の意思を表明。総評幹部らは「寝耳に水の出来事だ」と騒然となった[15]。出馬表明は社会党都本部三役の要請を受けた形で行われ、会見には党都本部委員長の大木正吾も同席した[7]。大木は選挙後、『月刊社会民主』1979年7月号に寄稿した文章のなかで次のように書いている。「日本の反動政治を防ぐ橋頭堡として革新都知事の座をどうしても守りたかった。そのために都市部において40%に達する革新浮動票が存在するという現実を率直にみつめ、それを集めなければ勝てないと考えた」「その当時の私の心境のなかには太田氏には申し訳ないが、太田氏ではとくに支持政党なしの浮動票の結集が困難であり、知事選に勝つことはむずかしいとの判断があった」[16]

太田擁立に消極的な飛鳥田は公明党との候補者選定に固執するも、太田の立候補は動かしがたいと見た公明党は中道の他政党との連携を模索し始めた。公明党はこれを契機に、1975年の都知事選以来の社会・共産両党との協力関係を断ち切り、自民・民社両党とのそれに、その政治路線を転換した[1]。公明党書記長の矢野絢也が、太田と同じく1967年に一度は候補になりかけた鈴木俊一を推し、民社党委員長の佐々木良作もこれに従った[17]。1月8日、公明党本部書記長の藤井富雄と民社党都連書記長の林永二は記者会見を開き、鈴木を両党統一候補として擁立すると発表した[1]

この頃、自民党においては、候補者リストから鳩山威一郎も国鉄総裁の高木文雄も消え、牛尾治朗と鈴木の二人にしぼられていた。宏池会のブレーンだった伊藤昌哉は鈴木を立てるのが当然と思い、1月11日、大平正芳首相と面会し、「4月の知事選で勝てば今年の政局はひとまず抜けられる」と進言した。


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