1979年のロードレース世界選手権
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1979年の
FIMロードレース世界選手権
前年:1978翌年:1980

1979年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第31回大会となる。
シーズン概要

500ccクラスを大きく様変わりさせたアメリカ人、ケニー・ロバーツは、そのロバーツを倒すべくコーナリング性能を高めてきたスズキのマシンをものともせずに、2年連続でタイトルを奪い取った。また、アメリカンライダーの隆盛のきっかけになる出来事としてランディ・マモラのデビューも印象的であった。

ディフェンディングチャンピオンのロバーツはシーズン前のテストで大怪我を負って開幕戦を欠場し、タイトル防衛が危ぶまれたが、第2戦には早くも復帰して勝利を飾り周囲を驚かせた。一方で彼のライバル達は不運に泣かされ続けていた。オーストリアGPでは予選でビル・ハートッグが腕を怪我し、ジョニー・チェコットは膝に深刻な負傷を負ってしまう。バリー・シーンはマシン・トラブルに悩まされ続けた。

イギリスGPでは、ロバーツがシーンに100分の3秒差で競り勝つという、近年稀に見るデッドヒートが繰り広げられた。また、この年はホンダ楕円ピストン4ストロークマシンNR500を擁して500ccクラスに復帰した年としても記憶される。

ベルギーGPでは、コースの安全性の問題に端を発し、FIMのレース運営に対する不満からトップライダーたちがレースをボイコットするという事態にまで発展した。トップライダーたちはこの後も団結し、シーズン終盤近くにはグランプリとは別の選手権である「ワールド・シリーズ」を立ち上げる構想を発表した。結局このワールド・シリーズ構想が実現することはなかったが、彼らのこの行動はFIMを動かし、レース運営におけるライダーの発言力を増すことに成功した。FIMは翌年以降、ライダーへの賞金を増加することを発表したのである。これらの出来事は、グランプリがよりプロフェッショナルなスポーツとして変革していくきっかけとなった。

カワサキコーク・バリントンは、前年に引き続いて350ccと250ccの両クラスでタイトルを獲得した。

125ccクラスのアンヘル・ニエトはミナレッリのマシンで通算9度目のチャンピオンに輝いた。

50ccクラスでは、エウジーニョ・ラッツァリーニが出走した5レース全てに勝利してタイトルを獲得した。
グランプリ

Rd.GPサーキット50ccクラス優勝125ccクラス優勝250ccクラス優勝350ccクラス優勝500ccクラス優勝
1
ベネズエラサン・カルロス A.ニエト W.ヴィッラ C.ラバード B.シーン
2 オーストリアザルツブルクリンク A.ニエト K.バリントン K.ロバーツ
3 西ドイツホッケンハイム G.ワイベル A.ニエト K.バリントン J.エクロード W.ハートッグ
4 イタリアイモラ E.ラッツァリーニ A.ニエト K.バリントン G.ハンスフォード K.ロバーツ
5 スペインハラマ E.ラッツァリーニ A.ニエト K.バリントン K.バリントン K.ロバーツ
6 ユーゴスラビアオパティヤ E.ラッツァリーニ A.ニエト G.ロッシ K.バリントン K.ロバーツ
7 オランダ(ダッチTT)アッセン E.ラッツァリーニ A.ニエト G.ロッシ G.ハンスフォード V.フェラーリ
8 ベルギー[1]スパ H.v.Kessel B.スミス E.Stoellinger D.アイルランド
9 スウェーデンカールスコーガ P.P.ビアンキ G.ロッシ B.シーン
10 フィンランドイマトラ R.トルモ K.バリントン G.ハンスフォード B.v.ドルメン
11 イギリスシルバーストン A.ニエト K.バリントン K.バリントン K.ロバーツ


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