1978年自由民主党総裁選挙
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1978年自由民主党総裁選挙

1976年 ←
1978年11月26日
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選挙制度総裁公選規程による総裁選挙


 
候補者大平正芳福田赳夫中曽根康弘
予備選748点638点93点
本選当選辞退-





 
候補者河本敏夫
予備選46点
本選-

選挙前総裁

福田赳夫
選出総裁

大平正芳


1978年自由民主党総裁選挙(1978ねんじゆうみんしゅとうそうさいせんきょ)に行われた日本自由民主党党首である総裁選挙である。

現職総裁福田赳夫に加えて大平正芳中曽根康弘河本敏夫の計4名が立候補し、予備選挙を通過した大平と福田のうち福田が辞退したため大平が当選者となった[1]
概要
大福密約

1976年ロッキード事件に端を発する三木おろしにおいて、反主流派の田中大平福田三派は挙党体制確立協議会(挙党協)を結成、三木中曽根両派による主流派を攻めた。第34回衆院選で自民党が議席を減らし三木の退陣が既定路線となったが、後任を巡っては大平正芳福田赳夫との間に大福密約が成立して、まず福田が首相になり、1期2年限りで大平に跡を譲る取り決めがなされた。

1976年12月23日、福田は両院議員総会で満場一致で総裁に選出された。幹事長には大平が就任し、福田の宿敵田中角栄の盟友である大平を取り込んだ「大福一体」体制が成立した。12月24日、総理大臣に就任。詳細は「大福密約」を参照

しかし福田は1977年の参院選に勝利したころから、続投への色気を見せ始める。同年末の内閣改造中曽根康弘総務会長に据え、田中派の大臣ポストを減らすなど、中曽根派の引き込みと「大平外し」を始める[2]
大平正芳が出馬を決意

1978年になると公選を見据えた派閥レベルの動きが活発化する。2月中旬には自民党役員会が「派閥活動を自粛するよう申し入れる」と声明し、大福の「政治休戦」と言われたが[3]、18日には大平の地元の自民党香川県連が大平を総裁候補として推薦する決議を行っている[4]。5月26日には読売新聞が「大平氏 公選出馬を決意」と報じる[5]。両院議員による本選挙を行った場合、大平が過半数を獲得すると見込まれていた[6]。一方、福田の路線は大福一体の継続のもとでの再選であり、大平が出馬しなければ福田は再選後の任期前半で禅譲すると大平に伝えたが[7]、大平は出馬辞退を受け入れなかった。

そこで福田は衆議院解散・総選挙を行ってそこそこの成果を残し、文句なしの続投を勝ち取ろうとする。総選挙で自民党が勝利すれば福田再選への流れとなり、敗北すれば選挙責任者である幹事長の大平が福田よりも責任を問われることになる。大平サイドは当然反発し、6月6日、金丸信防衛庁長官(田中派)は内閣委員会における答弁の中で「大義なき解散には反対である。解散の閣議があった場合、自分は署名しない」と発言した。16日、国会閉会日の代議士会では大平が「解散はないので、各自平常心で行動してもらいたい」と打ち消した[8]。当時の伯仲国会における政局を理由として解散とするシナリオが考えられたが、自民党幹事長の大平が新自由クラブ幹事長の西岡武夫と話をつけているため、たびたびの政局化しそうな局面でも与野党の折衝が早々にまとまり政局とはならなかった[9]。8月12日に中国との交渉が妥結し日中平和友好条約が調印されたことで福田政権の人気が上昇し、解散が無くとも福田の再選が見込まれるようになり、また条約批准の日程上も解散は難しくなった[10][注釈 1]。さらに8月27日には大平の地元の香川県知事選挙で自民党公認の大野功統が落選し大平の失点となり、福田の再選を後押しする要素に数えられた[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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