1975年東京都知事選挙
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1975年東京都知事選挙

1971年 ←
1975年4月13日 (1975-04-13)
→ 1979年


投票率67.29%
 
候補者みのべ亮吉石原慎太郎松下正寿
政党無所属無所属無所属
得票数2,688,5662,336,359273,574
得票率50.48%43.87%5.14%

選挙前知事

美濃部亮吉
無所属選出知事

美濃部亮吉
無所属

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1975年東京都知事選挙(1975ねんとうきょうとちじせんきょ)は、1975年4月13日に執行された東京都知事選挙第8回統一地方選挙の一環として実施された。
概説
1974年6月 - 1975年1月

1974年6月3日、自民党の都議団9人が党本部を訪れ、橋本登美三郎幹事長に要望書を手渡した。要望書には50人の自民党都議全員と、区市町村議など724人の署名が添えてあり、次のように書かれていた。

「首都を制する者は、国を制する。国とその体制にことさらに対決姿勢をとる美濃部知事の虚飾と偽善と怠慢の手から、断固都政を奪回することは、吾人の重責であると確信する。我々は、その最適の候補として、石原慎太郎氏を真剣に推薦するものである」[1]

この大時代的な要望書を橋本幹事長は一蹴した。1か月後に控えた参院選でそれどころではなかったのと、当時衆議院議員だった石原が明らかな反主流派であったことが背景にあったとされる[1]。石原は田中角栄首相が行った日中国交正常化とそれに伴う台湾との断交に真っ向から反対の意思を示しており、前年の1973年7月、反共を旗印とする政策集団「青嵐会」を結成していた[2]

1974年、自民党幹事長代理の江ア真澄は元民社党衆議院議員の麻生良方を行きつけの小料理店に呼び、「都知事選に出てもらいたい。橋本幹事長も『もし麻生さんにその気持ちがあるのなら、立候補にあたっての条件を聞きたい』と言っている」と告げた。麻生は政界を離れ政治評論家になった自身を「負け犬」と表現し、「東京1区で負けた者がなぜ都民を代表する都知事になる資格があるのか」と固辞した。1週間後、自民党参議院議員会長の安井謙が督促の電話をするも、麻生は再び断った[3][4][5]

同年7月5日、田中角栄は参院選の遊説先の水戸市で記者会見し、元大蔵官僚の相澤英之が知事選候補として「格好な人物であると思う」と述べた[6]

同年11月26日、金脈問題の追及を受けていた田中は退陣を表明した。同日、公明党東京都本部は美濃部亮吉三選を支持する方針を決定した。日本社会党はこの時点ですでに美濃部推薦を決定していたが、都の同和行政に批判的だった日本共産党は支持を保留する態度をとっていた[7]

同年12月9日、田中が首相を辞任し、三木内閣が発足。党幹事長には中曽根康弘が就いた。三木武夫は田中からの引継ぎ事項として、首相就任直後から一橋大学学長の都留重人の意向打診と説得にとりかかったが、都留は頑なに断った。三木は独自に選考を進めるも、意中の人物はいずれも実らなかった[8]

1975年1月17日、美濃部は、同和行政問題がからんで膠着している社共の共闘関係を憂い、局面打開のため、公明党委員長の竹入義勝、社会党委員長の成田知巳、共産党委員長の宮本顕治の三者に都知事選出馬の意向を伝えるとともに、選挙への協力を要請した[9]

1月22日に開かれた政府・与党連絡会議で、安井謙と全国組織委員長の福田篤泰は人選を急ぐよう三木に要請した。党内部では「美濃部に相乗りしてはどうか」との意見もささやかれ始めていた。三木は同日、中曽根康弘幹事長と会い「少し待ってほしい」と了解を求めた[8]

1月23日、朝日新聞は朝刊一面で、三木が、石原と同じ旧東京2区選出の宇都宮徳馬に出馬要請する意向を固めたと報じた[8]。1月29日、宇都宮は国会内で三木と会い、「私には国会議員としての責任と執着がある」として出馬の意向がないことを伝えた[10]
1975年2月

2月6日、党幹事長の中曽根康弘は石原慎太郎に正式に出馬要請をした。2月14日付の毎日新聞朝刊は、石原が事実上要請を受諾し、出馬の意向を示したと報じた[1]

2月16日、美濃部亮吉は2期限りでの勇退を表明した。同和問題をめぐる日本社会党日本共産党の両党の分裂を理由とした。2月18日の都議会特別予算委員会でも重ねて不出馬を表明した[11]

2月19日、都民有志約50人が美濃部の出馬を求め、都庁正門前で集会を開き、「美濃部さんを三選させる都民党」の設立を宣言した。あわせてテント村をたて、ビラ約千枚を通行人に配布した[12]。警視庁の統一地方選事前運動取締本部は翌20日、垂れ幕やビラが事前運動や違反文書の掲示に当たるとして警告を発したが、テント村住民は「この大事なときに、違反になるかどうかなんて構ってられない」と横断幕の数をさらに増やした[13]。25日には身障者手帳を持つ横浜市在住の男性が「美濃部都政が崩れれば、横浜市の飛鳥田市政にも悪影響が出る」として、都庁正面玄関わきの屋外階段の下でハンストを始めた[14]

2月21日、美濃部は記者会見で涙を見せながら「どんなことがあってもでない決意だ。仮に社共統一戦線が復活しても今の気持ちはおそらく変わるまい」と発言した[11]

2月28日、都知事選立候補予定者に対する説明会が開催される。同日16時の定例記者会見で美濃部は「3選出馬は絶対ない」とまで言い切った。しかしこの日、政治評論家の上里繁は、3月4日発売の『週刊読売』のための原稿の出だしを次のように書いた。「スマイルの美濃部さん#濃部亮吉・東京都知事は必ず翻意、三選出馬に踏み切る。その時期は、3月10日前後である」[11]
1975年3月以降

3月6日、石原はホテルニューオータニで会見し、正式に出馬表明をした。黛敏郎遠藤周作、江上フジらが出席し、司会は浅利慶太が務めた[1]。石原の選挙母体である「新しい東京をつくる都民の会」の代表には黛が就任し、小林秀雄が代表幹事の一人として名を連ねた。そのほか、坂本二郎黒川紀章牛尾治朗香山健一塩路一郎飯守重任はかま満緒小池朝雄村松英子若三杉彰晃扇谷正造升田幸三八木治郎高田好胤桂文治山本直純高峰三枝子木暮実千代毒蝮三太夫鶴田浩二らが石原を支援した[15][16][17][18][19][注 1]


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