1975年のメジャーリーグベースボール
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以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1975年のできごとを記す。

1975年4月7日に開幕し10月22日に全日程を終え、アメリカンリーグボストン・レッドソックス(東地区優勝)が8年ぶり9度目のリーグ優勝で、ナショナルリーグシンシナティ・レッズ(西地区優勝)が3年ぶり7度目のリーグ優勝であった。

ワールドシリーズはシンシナティ・レッズがボストン・レッドソックスを4勝3敗で破り25年ぶり3度目のワールドシリーズ制覇となった。

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できごと

アメリカンリーグ

東地区は、レッドソックスが23歳の
フレッド・リン(打率.331・本塁打21本・打点105)と22歳のジム・ライス(打率.309・本塁打22本・打点102)の若い新人外野手がチームを引っ張り、これに前年にレギュラーとなった23歳のドワイト・エバンスとで若手外野陣が活躍してリーグ最多の796得点を記録した。投手はリック・ワイズ(19勝)、ルイス・ティアント(18勝)、ビル・リー(17勝)がいて、故障で戦列を離れていたカールトン・フィスク(打率.331・本塁打10本・52打点)捕手が6月下旬に復帰して、そして7月上旬から10連勝し以後は首位を独走し、95勝で東地区を初優勝した。西地区は、アスレチックスのオーナーであるチャーリー・O・フィンリーが前年の契約を完全履行しなかった失態から キャットフィッシュ・ハンターは自由契約となってヤンキースへ移籍したが、ヴァイダ・ブルー(22勝)、ケン・ホルツマン(18勝)の両左腕が健在で、打撃陣はレジー・ジャクソン(打率.289・本塁打36本・打点104)、ジーン・テナス(本塁打29本)、20歳のクローデル・ワシントン(打率.308・盗塁40)らがいて地区5連覇となった。リーグチャンピオンシップシリーズは、レッドソックスがアスレチックスにあっさり3連勝して8年ぶりのワールドシリーズ進出を決めた。アスレチックスは、オーナーと選手たちとの確執が深まり、この翌年にフリー・エージェント制度の導入とともにほとんどの主力選手がアスレチックスから離れてチームは弱体化した。

個人タイトルは、ツインズの ロッド・カルー (打率.359)が4年連続5度目の首位打者、アスレチックスのレジー・ジャクソン(本塁打36本)が2年ぶり2度目の本塁打王、ブルワーズの ジョージ・スコット(本塁打36本・打点109)が初の本塁打王と打点王となった。盗塁王はエンゼルスのミッキー・リバース(盗塁70)で彼はこの翌年ヤンキースに移籍した。そしてこの年にヤンキースに移ったキャットフィッシュ・ハンター(23勝)が2年連続最多勝となり、これが5年連続20勝となった。オリオールズのジム・パーマー(23勝・防御率2.09)が初の最多勝と2年ぶり2度目の最優秀防御率を獲得し、以降3年連続最多勝を続け、1970年から1978年までに1年を除いて20勝を8回記録した。そしてエンゼルスの フランク・タナナ(奪三振269)が同じエンゼルスのライアンを抑えて最多奪三振となった。リーグMVPはレッドソックスのフレッド・リンでリンは他に最優秀新人賞も受賞しており、新人王とのダブル受賞は史上初であった(リーグMVPと新人王とのダブル受賞の史上2人目は2001年のイチローである)。サイ・ヤング賞はオリオールズのジム・パーマーが選ばれた。

ナショナルリーグ

東地区は、前年惜しくも地区優勝を逃したパイレーツがデーブ・パーカー(打率.308・本塁打25本・打点101)がレギュラーとなり、チームの新たな顔となってウィリー・スタージェル(打率.295・本塁打22本・打点90)との二枚看板となった。マニー・サンギーエン(打率.328)捕手も活躍して5度目の東地区優勝となった。西地区は、レッズが5月半ば頃は18勝19敗と黒星先行であったが、ピート・ローズ(打率.317)を三塁手にコンバートし、その空いたレフトにジョージ・フォスター(打率.300・本塁打23本・打点78)を据えてから快進撃が始まり、9月7日に早々に地区優勝を決めた。終了時には108勝を上げていた。ジョー・モーガン(打率.327・本塁打本・打点94・盗塁67)、ジョニー・ベンチ(本塁打28本・打点110)、トニー・ペレス(本塁打20本・打点109)、投手ではドン・ガレット(15勝)、ゲイリー・ノーラン(15勝)、ジャック・ビリンガム(15勝)、他に二ケタ勝利が6人、そして新人ローリー・イーストウィック(22セーブ)がいた。この年から頭角を表したジョージ・フォスターはレッズの主砲として活躍し、レッズは捕手ジョニー・ベンチ、一塁トニー・ペレス、二塁ジョー・モーガン、遊撃デーブ・コンセプシオン、三塁ピート・ローズ、右翼ケン・グリフィー・シニア、中堅シーザー・ジェロニモ、左翼ジョージ・フォスターのビッグレッドマシンの陣容が整った。リーグチャンピオンシップシリーズは5回目出場のパイレーツと3回目出場のレッズの組み合わせで3度目となる対戦であったが、底力で勝るレッズがあっさり3連勝してリーグ優勝しワールドシリーズへ進出した。


個人タイトルは、カブスの ビル・マドロック (打率.354)が初の首位打者で以降9年間に4度首位打者を獲得する。フィリーズのマイク・シュミット (本塁打38本)が2年連続2度目の本塁打王、同じフィリーズのグレッグ・ルジンスキー (打点120)が初の打点王、ドジャースの デイビー・ロープス (盗塁77)が初の盗塁王となった。前年不調だったメッツのトム・シーバー (22勝・奪三振243)が2度目の最多勝と4度目の最多奪三振、パドレスのランディ・ジョーンズ (防御率 2.24)が初の最優秀防御率となった。そしてリーグMVPはレッズのジョー・モーガンで、サイ・ヤング賞はメッツのトム・シーバー であった。

ワールドシリーズ

1975年のレッドソックス対レッズのワールドシリーズは「史上最高のシリーズ」「史上有数の名勝負」「ドラマを超えたドラマ」として語り継がれている。第7戦までもつれ込んだ対戦のうち1点差ゲームが5試合、2試合が延長サヨナラゲーム、しかも毎試合シーソーゲームを展開し、同点・逆転の場面が13回、先制した側が勝ったのは1試合だけで後の6試合は全て逆転勝ちの試合であった。ボストンでの第1戦はレッドソックスの7回裏の先制6点がそのまま決勝点で終わったが、次の第2戦は1点差で9回表あと3人でレッドソックスの2連勝のはずが、レッズが2死3塁からケン・グリフィーの二塁打で2点を取って逆転勝ち。シンシナチでの第3戦は延長10回裏にレッズの無死1塁からの犠牲バントが打者と捕手が接触して悪送球して守備妨害との猛抗議も認められず、結局1死満塁からジョー・モーガンのサヨナラ打でレッズが2勝。第4戦は2点先制されたレッドソックスが4回表にカール・ヤストレムスキーなどの適時打で5点が入って逆転して2勝タイに。第5戦は1点先制されたレッズがトニー・ペレスの同点ソロ本塁打と2ランで快勝して3勝2敗で王手をかけた。そして歴史に残る激闘となったボストンでの第6戦はボストンで降り続く雨のため3日間雨天中止が続き、第5戦から5日後に開催され、レッドソックスが3点先制するとレッズが3点取って同点、今度はレッズが逆転して3点差とするとレッドソックスは8回裏に代打バーニー・カーボが起死回生の同点3ラン、そして9回裏無死満塁でレッドソックスのリンがレフトフライを打つと3塁走者ドイルが本塁へ走ったがジョージ・フォスターの返球で本塁アウト。11回表には1死1塁でジョー・モーガンのライトへホームラン性の大飛球をライトのエバンスが超美技でキャッチしてすぐに1塁へ好返球して走者アウトとなった。こうした数々のファインプレーで緊迫したムードの中で迎えた12回裏にレッドソックスのカールトン・フィスクが打った打球がレフトポール際に飛び、サヨナラ本塁打となった。「入れ・・入れ」と懸命に身振りでジェスチャーしたフィスクの姿がメジャーリーグの歴史に残った劇的な勝利だった。3勝3敗となって第7戦にもつれ込んだが、この試合はNBCテレビの全国中継で全米で約7,600万人が見たという。第7戦はレッドソックスが3点先制したが6回表にビリー・リーの超スローボールをトニー・ペレスが2点本塁打し、7回表にピート・ローズの適時打で同点とし、9回表にジョー・モーガンの適時打でついにレッズが逆転して球史に残る死闘は終わった。7試合通算でレッズは安打60本・本塁打9本・総得点30点、レッドソックスは安打59本・本塁打4本・総得点29点。本塁打なしの試合が3試合あってのこの数字が歴史的激闘を物語っている。シリーズMVPはピート・ローズ(打率.370・打点2・得点3)が選ばれた。

保留条項の崩壊

前年1974年に20勝して最多勝・ゴールドグラブ賞・ベストナインにも選ばれたドジャースのエースのアンディ・メッサースミスはシーズンが終わって契約更改の席で年俸20万ドルの3年契約を主張し、球団は渋々認めて契約書に署名する段になって突然「トレードしない」という条項を入れるように球団に要求し、ドジャースは前例がないとして拒否した。


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