1972年札幌オリンピック
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永井のほか、亀倉雄策1964年東京オリンピックのエンブレムを担当)、栗谷川健一田中一光仲條正義原弘細谷巖和田誠を含めた計8名の「指名コンペ」だった[2]。永井によると、デザイン条件は、「SAPPORO」と開催年と五輪マークを入れること。あとは、冬のイメージを入れること程度だったという[3]

日の丸と雪の結晶、五輪マークと「SAPPORO 72」の文字を、それぞれ正方形の中に配したもので、縦一列や横一列、四角にまとめるなど、様々な形にできるように工夫されていた。のちにテレビ番組「デザインあ」のインタビューコーナー「デザインの人」では、永井が一番気に入っているデザインだと述べている。
ハイライト

開会式は1972年2月3日木曜日午前11時から真駒内屋外競技場で行われた。気温零下8度、5万4千人の大観衆の中、35か国の選手団が入場し、日本選手団スキージャンプ選手の益子峰行が旗手を務め最後に入場。聖火は札幌北高校1年生でフィギュアスケート選手の辻村いずみがトーチを掲げながら入場し氷上を滑走後、バックスタンドの下でトーチを渡された最終走者、札幌旭丘高校1年生の高田英基が聖火台へ続く階段を駆け上がり点火した(1972年札幌オリンピックの開会式も参照)。昭和天皇1964年東京オリンピックに続き2度目となるオリンピック大会開会宣言を行ったが、同一人物が複数のオリンピック大会で開会宣言を行うのは史上3人目であった[4]

スキージャンプ70m級(現在のノーマルヒル)では笠谷幸生が1位、金野昭次が2位、青地清二が3位と、日本人が冬季オリンピックでは初めて表彰台を独占した。日本は地元とあって大選手団を送り込み、冬季オリンピックの歴史上メダル獲得は猪谷千春による1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピックアルペン回転銀メダルの1個だけだった時代に、ジャンプ70m級の金銀銅メダル独占という快挙に結実した。このメダル独占は、この時から日本のジャンプ陣が日の丸飛行隊と呼ばれるようになった。

フィギュアスケートで氷上で尻もちをつきながらも銅メダルをとったアメリカジャネット・リンが「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれ、日本中で人気になった。当時カルピスのCMにも出演した。

ソ連ガリナ・クラコワクロスカントリースキー女子の3種目すべてで優勝する快挙を達成した[5]

オランダアルト・シェンクスピードスケート男子4種目中1500m、5000m、10000mで優勝、三つの金メダルを得た[5]

アルペンスキー女子ではほとんど無名のマリー=テレース・ナディヒスイス)が滑降と大回転の2冠に輝いた[5]

バイアスロン男子20kmでマグナル・ソルベリ(ノルウェー)が1968年グルノーブルオリンピックに続いて優勝、同種目史上初の連覇を達成した[5]

アルペンスキー男子回転で優勝したフランシスコ・フェルナンデス・オチョアスペインに初の金メダルをもたらした。

本大会の開催前に、オリンピック憲章に示されたアマチュアリズムをめぐって大きな論争が巻き起こった。IOCのアベリー・ブランデージ会長は報酬を受け取ったとされる40人のアルペンスキー選手の参加資格を剥奪すると発表、それに対してFIS(国際スキー連盟)がスキー競技をボイコットする可能性があると言い出し、両者は対立関係になった為、妥協策としてオーストリアのカール・シュランツ(スキーメーカーから年間5万ドルのスポンサー料を得ていた)の出場を認めない事で決着した[6]。この結果は「金持ちしか五輪に出られなくなる」と選手たちから反発を浴びた。シュランツもその後1989年に復権している。また、カナダ共産圏選手が実質プロであるのに参加が認められたことに反発、アイスホッケーチームの派遣を拒否した。

歴史的には木製のスキー板を使用する選手が金メダルを獲得した最後の大会となった。以後クロスカントリースキーのトップクラスの選手はグラスファイバー製のスキー板を使用するようになる[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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